個々の症状に対する治療の方針、心構え、症状成立の機転に関しては、森田正馬博士の他の著書にゆずり、ここは対人恐怖症に関することをやや詳しく述べることとする。

対人恐怖症の種類

1.赤面恐怖

人前で赤面すること、顔のほてる感じが、人に注目されるようで非常に恥ずかしく、そのために人前に出ることを嫌がるものである。

こんな人は人から血色が好いといわれても、自分の赤面を指摘されたようで、はなはだしい不快を感じたりする。

そのために種々の小刀細工もやったりするもので、非常に暑いという恰好をして、顔の赤いのも暑さのためだと人に思わせるようにしたり、何度も冷水で顔を洗ったり、酒でごまかしたりする。

まるで赤面地獄に堕ちたように悩むものである。

ところがなかには格別顔は赤面しないで、ただ自分でほてる感じがするので、赤くなるものと決め込んでいる人もある。

2.視線恐怖

人と面と向かっている時、視線ののやり場に困って非常に狼狽する。

その不快を嫌がって人前に出るのを避けるのである。

これではならぬと、相手を見つめると苦痛はますます激しくなってくる。

3.表情恐怖

人と接する時、自分の顔がやこわばってしまって、あるいは能面のようになってしまって、それが人に変に思われはしないかと恐怖すること。

4.その他の症状

また顔だけに限らず、物事をするのに自分の手つきが変である、歩く時の恰好が変であるとか、あるいは自分の体臭が人に不快を与えることを気にするというのもある。

腋臭があると思い込み、また事実多少あるのを非常に重大視して、毎日シャツを洗ったりしなければ人前に出ようとしないものなどもある。

対人恐怖症にも種々あって、個人に対しては格別のことはなくても、多人数の前に出るのが極端に嫌なもの、あるいは個人的対談に際して、話すべき話題のないことが苦になるもの、人に対するとき堅くなり、ぎこちなくなるのを嫌がるもの、震えるのを恐怖するもの種々様々である。

対人恐怖症は誰にでもある

さて人と接し交わるからには、人に好感を持たれたい、人から重くも見られたいと思うのは人情の自然であるが、その反面には、人に不快を与えやしないか、人から嫌われやしないか、軽蔑されやしないか、というような心配も起こるのが普通である。

対人恐怖症はこういうところから起こってくるわけである。

だから、ある程度の気おくれというようなものは、誰にでもあるのが普通である。

ここに十人の人がいて、大勢の前で話をするのが好きか嫌いか、と訊ねられるとすれば、まず十人のうち九人は嫌いだというのである。

してみれば、嫌なのが普通で、好きなのが特別であるといわなければならぬ。

上長の前でかたくなるとか、圧迫されるように感じるとか、異性の前で顔がほてるとか、人前で委縮する、ぎこちなくなる、視線のやり場に困る、自分の表情が歪んで人に不快を与えるように思うとかいうような、いわゆる対人恐怖症、赤面恐怖、視線恐怖、表情恐怖などは、誰でも、時と場合によって経験することで、何も病的なことでもなく、とくべつなことでもないので、人情の自然であるといっても差し支えない。

捉われるか捉われぬかの違い

対人恐怖症は時と場合によって、誰にでもあるものだから、あるのが普通と心得て、そのままあっさり思い捨ている人は、それに捉われることもなく、時に対人恐怖症的気分になるとしても、それを強く意識することもなく、その場限りで過ぎ去って後を残さないのである。

ところがそれに捉われる人は、人と面接するごとに、強く対人恐怖症を意識して苦しみ、人に会わなければならぬことがあれば、もう何日も前からそれを苦にし、はては毎日毎日対人恐怖症の地獄にいるように思い込んでいるのである。

そのためなるべく人に会うことを避けるようにし、生活は消極的に引っ込み思案になり、自分の能力を発揮し得なくなるので、そのためにひどい劣等感をおこしたりする。

なぜ捉われるか

常に対人恐怖症を問題にして、人中に出るのを何よりも嫌がるのは、すでに対人恐怖症にとらわれているからであるが、どうしてそういう工合に捉われるのか、その理由を知れば、その捉われから抜け出す道も、おのずから会得することができる。

捉われる根本的な理由として、第一に神経質の人は、普通人の誰にも起こる対人恐怖症を自分だけに特別なものと心得て、それが自分の生活にとって非常に不利なものと思い込んで、この当然あるべき自然の人情を、否定しようとしたり、それから逃れようとしたりすることにあるのである。

花を見て美しいと感じ、蛇を見て気味悪く思うのと同じように、人に会って気後れがすることもあり、人に注視されてぎこちなく感じたりすることも、同じように自然の人情なのであるから、自分の思い通りになるものではない。

蛇を見て気味悪く思うのは嫌だから、愛らしいものに思いたいと念じたところでそうはゆかない。

強いて愛らしいものと感じなければならぬと固執すれば、それは不可能を可能にしようとする葛藤になる。

かなわぬ戦争をするようなもので、いよいよ苦しむばかりである。

対人恐怖症も同じように、それを絶対に起こさぬように念ずれば、いよいよ対人恐怖症を強く意識するようになり、それがこびりついて頭からはなれないのである。

こういう対人恐怖症の捉われをどうして脱却するか。

あるがままに任せる

われわれは蛇は気味悪いものだ、と素直にその感じを受け入れて、平気になろうとも何ともしないから、蛇恐怖にとりつかれたり毎日それを苦にしたりすることもない。

冬は寒く、夏は暑いものと心得ているので、それに捉われていることもない。

つまり往生しているのである。

どうにもならぬことは、仕方がないとして、そのままでやれるだけのことをやってゆくのである。

対人恐怖症も同じようなものだから、あるのが常態と心得て、素直に、対人恐怖症でも何でも感じながら、びくびくはらはらのままやってゆくだけである。

平気になろうとも何ともしないから、葛藤もなく、ちょっと対人恐怖症を感じても、いつの間にかすっと消えてしまう。

完全欲から虫のいい考え

捉われは無理な完全欲から起こりやすい。

常に最上のコンディションを持っていなければならぬものと心得るから、常に何か身心の不都合なところを問題にして、それに捉われる。

勉強する時は頭脳がいつも明瞭で、雑念もなく、倦怠感もない状態でなければならぬとか、床につけばいつも直ちに熟睡すべきものであるとか、余計な心配は一切すべきでないとか、必要なことは一切忘れてはならぬとかいうように念ずる。

しかし実際には我々の身心の状態は、常に変化流動しているもので、気分も良かったり悪かったり、天気のように変わるのが普通であるから、完全なコンディションを保たなければならぬと心得る人は、常に現実に裏切られて、かえって誰にもある普通のことを、何か病的なこと、自分だけの特別なことのように考え違いをして、頭重感に捉われたり、記憶不良に悩んだり、不眠恐怖雑念恐怖にとりつかれたりするのである。

対人恐怖症の場合も同じで、人に会って、少しも気後れしないように、固くならないように、圧迫感を受けないように念ずるから、事実に裏切られて、いよいよ症状を強く感ずるのである。

だから、むしろはじめから、そういうことは人情の常と心得て、素直に受け入れてゆくのが、正しい態度であり、とらわれないやり方である。

対立的な態度がよくない

対人恐怖症の人は、人と対立的になっていることが多い。

人に対して勝つか負けるかという態度であれば神経質的になる。

人に接して少しでも圧迫を感じれば、俺の負けだと思う。

互いに見合って、きまりが悪いから、眼をそらすと俺は負けたという工合である。

せまい了見である。

対立的でなく、人から何でも学んでゆくというような態度であれば、人も喜ぶし自分も得るところが多く、人と融合して圧迫を感じない。

話し上手になるより、むしろ聞き上手になるように心掛けるがよい。

関係念慮を自覚すること

対人恐怖症の人は卑屈な気分で自己中心的に物事を解釈しやすいものである。

電車に乗っても、あるいは通りを歩いていても、周囲の人々が自分を見ている、しかも軽蔑の眼で見ていると感じるものがあり、人が笑っても自分を馬鹿にしているとか、眼をちょっとしかめても自分を不快に思っているのであるとか、人が話をしていると自分の悪口でもいっているのではないかと種々に気を回すひとが多い。

自分に関係のないことを関係があるように、被害的に考えるので、こういうのを関係念慮というのである。

内向的自己中心的態度の現われである。

対人恐怖症の人は、じぶんが事実をあるがままに見ないで、卑屈な気分で関係念慮を現わしていることを案外自覚しない人があって、苦しい独り相撲をとっているのである。

このことをよく自覚することが大切である。

生活全体の外向化をはかれ

対人恐怖症は内向的態度の人に起こりやすいものである。

内向的な人は、進んで自分の能力を発揮することよりも、いつも自己防衛の方に心を使っている。

細心、要慎深いこと、真面目なことなどは長所ではあるが、自己中心的に自分の身心のことばかりに注意を向けているので、普通誰にもありふれたことを、自分ばかり特別な病的なこと、あるいは自己保存上非常に不利なことのように感じて、神経質症状を起こしやすいのである。

たとえば人と対話するにしても、話の内容に気を向けずに、自分の顔面の感じに注意を向けているので、そのため本当に赤面するという調子になる。

そうして赤面恐怖に取りつかれて、その予期不安のために人に会うのが苦しくなる。

あまりに内向的になれば生活が委縮してしまう。キャッチボールをやるときボールを見ておれば、手はいちいち意識しなくても、おのずからその方に向くのであろうが、自分の手を見ておれば、ボールを取り外してしまうようなことになる。

人に対する時、自分の気持ち、顔の感じ、自分の態度等に気を向けていると、一層圧迫を感じ、人の話も上の空に聞いて面白くもなく、相手も気乗りがしないという調子になる。

だから対人恐怖症に限らず、神経質症状を治すには一つ一つの症状を治そうとせず、生活全体を積極的に推進さして、毎日することが多くて、忙しくて一日が短い、というような生活をするようにするのがよい。

生活の外向化はどしどし仕事をするに限るのである。

気の付いた事は直ちに手を下してやる、という生活態度が身につけば、すなわち自己に即せず、外界の事物に即してゆく生活が実現すれば、神経質症状はおのずから消散するのである。

※参考文献:対人恐怖の治し方 森田正馬著