自分の眼のの鋭くなるのが気になる

いつまでも胸に秘めていても、際限のないことですから、思い切って、発病の動機からお話しして、ご指導を賜ろうと思い、拙いペンを、取り止めもなく走らせました。

対人恐怖症患者の発病の動機

:ある時、一人のお客様の見えていた時でした。

夕方お風呂から上がられ、涼んでおられた時、私がちょうど通りがかり、何の拍子でか、強くその方の〇〇を見つめた。

その後、大変失礼なことをしたと、心配し苦しみました。

対人恐怖症患者の病気の経過

:こんなことが病みつきとなって、その後、その方に出会うたび、着物を着ていても不用意に〇〇を見つめては、煩悶しておりましたが、たび重なるうち、次第に一人だけでなく、男の方をみさえすれば不用意に見つめるといった具合になり、一昨年の春頃よりは、眼つきが大変鋭くなって、一切人を見られなくなった。

人だと思うと、ちょっと手を見るにも凄く見つめるのが、たまらなく気の毒で、なるべく人を見ないようにとつとめていたが、人だと思うと、先に目が鋭くなるといった次第で、ついには、外出も、家の人に出会うにも、顔をそむけなければならず、苦しいので、一室に閉じこもり、気狂いじみておりました。

その時は、先生の著書を読んでおりましたので、父に無理に頼んで、連れて行ってもらった次第です。

外来診察を受けて

ただ今では、先生のご著書、並びに雑誌等、読ましていただきまして、大分自分の姿が見えて参り、良い方向に向かいましたけれども、ややともすれば、やはり目が凄くなって、前後の差別もわからなくなって、悲観いたしております。

近頃では、外出等も、さほど気にかからなくなって参りましたけれど、目上の人とか、知人等と会って話したりする場合には、どうしても目が凄くなって、顔が上げられなくなるのです。

挨拶くらいでしたらできますけれど、皆と一緒に話し合って笑い興ずるといったことなど、できません。

自分では、話の種はいくらもあっても、顔でも上げようとすれば、硬くなって、見えるものすべてが不自然に強く目につき、そばに居る人など気味悪そうにされるので、気の毒で、苦しくてたまりません。

親類などからも、遊びに来るように言っていただきますけれど、恐ろしくて参りません。

外出するにも、一人であれば平気でも、誰かと一緒にとなると目が鋭くなり、いやな感じを与えないように、なるべく目を向けないようにと思えば、なお注意はその方に向き、鋭くなりますけれど、どうすることもできません。

仕事などには身が入り、園芸が好きで、畠いじりなどしている時には、どこが悪いのだろうと思うくらいですが、人前に出れば、たちまち病的となりまして、家族の人達とでも、打ち解けて話すことができません。

どうか、心の持ち方をお教え下さいませ。

気分にさからわず従順に

拝復
先日診察の時、このお手紙のように書いたものをご持参になれば、よくご説明もできて、なお御父上にもご了解を得て、ご入院なさればよかったのにと思います。

ご発病は、性欲に関することで、人にも親にもいわれない、恥かしい事柄の感動の苦痛がもととなり、その苦痛を思い出すたびに、その苦痛、そのことが恐ろしく、その事柄を思わないように、忘れるように、気を紛らせるようにと苦心する。

たとえば一度、雷の落ちた経験をしたとすれば、もし自分が打たれたらとの恐怖の苦しさを起こす。

その恐ろしさの不快をなくしようとして、雷のことを思わないようにしようとする。

しかし、それは不可能なことで、何かの時に、雷のことの思い出されることはやむを得ないことです。

その思わないようにする努力は、かえってますますそのことに執着して、忘れることができないようになります。

忘れるという事は、何も考えないようになることで、これを忘れようとか思わないようにとか考える間は、忘れることのできないのが当然のことであります。

「目が凄くなる」とは、眼がスラスラと動かないで、固定し見つめるために起こるので、自然の目は自由に動こうとするのを、ツイ一定の所を見てはならないと、故意にけん制しようとするため、目がかたく、動かなくなるためであります。

すなわちこれは目の動くままに、自由に放任すれば、子供の眼のように、うるわしくなるのであります。

以上のような条件であるから、これを治すには、

1.第一の苦しい事柄は、偶然の事件で、怪我や災難と同じように、防ぐことのできないことである。

2.怪我は痛く、恥かしいことは苦しく悩ましいのは、当然のことである。

すなわちそれは、忘れようとしたり、気を紛らせようとしたりしても、どうすることもできないことである。

最も正しいことは、柔順に、おとなしく、さからわず、これを忍受することであります。

そうすれば、感情の法則により、その苦悩は、最も早く、薄紙をはがすように、次第に消失するものです。

これに反して、これに逆らおうとする時には、ますます執着になるものです。

上長の人や、知人と交話する時は、日本の礼法としては、その尊敬の度の強いほど、その人の膝の先、下腹、胸部というように、その近傍を、ぼんやり見ながら(その方向に、見るともなしに、目を向けながら)先方が何か言う時、または自分の意見を確かめる時、先方の顔をちょっとの瞬間、盗み見るのが法で、それがちょうど、人情の自然であります。

それを、ことさらに見ないように、あるいは一定の所を見つめよう、人の目を見つめようとかいうふうに考えると、目が凄くなるのであります。

また進んでは、むしろ自分の嫌と思う局部を見つめるように、稽古することが得策です。

それはかえって、自分の心の自然であるから、むしろ、それに従うという心の態度であります。

そうすれば、かえって苦しい、恐ろしい、そのために、ますます執着するような気持ちはするが、私のお勧めする通り、思いきって実行すれば、必ず早く治ります。

4.「顔が上げられなくなる」、そのままで、よろしい。

強い勇気を出して、顔を上げさせようとせず、オドオドして、はずかしがっていればよいのです。

以上申し上げる通り、その心持ちだけを、ただ実行しさえすれば必ず治ります。

※参考文献:対人恐怖の治し方 森田正馬著