涜神恐怖、赤面恐怖が氷雪の解けるがごとく全快
対人恐怖症(涜神恐怖、赤面恐怖)の克服記第三信
・・・さて、ここにお喜びくだされたいことは、あれほど、頑強で猛烈だった涜神恐怖が、氷雪の解けるように、全快してしまったことです。
実は今日、小生が回生の歓喜を得ることができたのは、ひとえに先生の賜と、深く感謝いたします。
本当に現在の小生は、何の恐れるところもなく自由な生を享楽しております。
しかし、対人恐怖症は、なぜか、まだあまり良くなりません。
それはあるいは、小生が徹底的に先生のお教えに従っていないからかもしれません。
対人恐怖症を隠さないように努めようとしても、人前に出ると、「お前は恥ずかしがり屋」だといわれるのが恐ろしくて、どうしても隠さずにはいられません。
涜神恐怖を全快させていただいて、そのうえ、お願い致しますのは、はなはだ僭越なぼうしょくの嘆でありますが、涜神恐怖をたちどころにお治し下さいました先生の慈愛のお手におすがりするよりほかに途がありません。
何卒、下記の愚問に対して、お答えを受け賜わるわけにはまいりませんでしょうか。・・・
1.対人恐怖症を克服すべき心得をお聞かせください
2.対人恐怖症は、なるべく交際をしないで、厭人的生活をしばらく続けた方が良いでしょうか。
またその反対の態度をとって、対人恐怖症の起こるに任せつつ、人と交際し職業に就いた方が、よろしいでしょうか。
3.教職について、責任や義務が、いかに重くとも私はかまいませんけれども、児童に、この私の神経質が反映することは、罪悪のように思われますが、そんな道徳観念を捨てて教職に就いても、差支えはないものでしょうか。
なお、書き落としたことは、私は今、独居していますが、前には、夜等、淋しい、何だか心もとない恐怖に捉われて、少しも落ち着きませんでしたけれども、現在では、淋しいとも、何らの不安をも感じません。
ただ、誰しもが感ずる無聊に苦しんでいるだけです。
このことも、厚くお礼申し上げます。
恥ずべきことを恥よ
対人恐怖症(涜神恐怖、赤面恐怖)の克服記第三信へ森田正馬の回答『涜神恐怖が、私の一言により、ご氷解なさった由、私の身にとって、こんな嬉しいことはありません。
なお、対人恐怖症に対して、要領を得ないとの由、すべて強迫観念は、同一の理由によって起こるものですから、その要点を得れば、全体に治癒すべきものです。
涜神恐怖が治って、対人恐怖症が治らないはずはありません。
赤面恐怖については、人前に出て「お前は恥ずかしがり屋だ」といわれた時は、「どうも僕は、実際に気が小さくて困る。
何かといえば、すぐ顔が赤くなる。
こんな不本意なことはない。
ほんとに僕は・・・」とお打ちあけなさい。
これはまず形式的でもよいから、この文句を何度でも、繰り返して下さい。
お尋ねの個条については、
1.対人恐怖症は、治るべきものではありません。
当然、自己の持ち前をもって、人に対し、自分に対して、常に恥ずかしがるのがわれわれ本来の面目です。
「恥を知る」とは、このことです。
「君子は、その独りを慎む」
ということは、常に自ら省みて、自分の恥ずべきことを恥じることです。
人は恥ずかしがるがゆえに、常に自分の行いを慎むのです。
恥じるまいとすれば、いつしか自ら恥ずべきことをなし、自己の恥を繕い隠して、虚偽に陥り、ますます後悔、悲観、卑屈が引き続いて起こります。
はじめから常に、自ら些細な恥をも恥としなさい。
自らえらがるべからず、虚勢を張るべからず、返すがえすも常に自分の本来のままに、恥かしがるべきです。
2.厭人的生活は、駄目です。
これは、恥を軽減する手段ではありません。
赤面恐怖は、本来自分が人に勝とうとする心の反面です。
赤面に勝とうとして、ことさらに交際の稽古をするのは無用です。
かといって、自己の境遇、職業のためになすべきことは、いかなる苦痛、困難もやむを得ないところです。
貴人、衆人の前に出ることも、時にはノッピキならないことです。
孟子は「内に省みて疚しければ、乞食のようなものにも我は謝るが、内に省みて疚しからざれば、千万人といえども我行かん」という意味のことをいっている。
いかに孟子でも、こんな時には、顔から火の散るような心持ちのするのは、当然のことです。
ここを思いきってやってのけるのが、孟子のいわゆる不動心かと存じます。
俗人は、このような時に孟子が平気でいると想像するであろうけれども、それは大きな誤解です。
野狐禅です。
3.誤った思想に捉われ、それから割り出した善悪観は、全く虚偽になり、人工的なものになる。
善は真であらねばなりません。
じぶんの純真ありのままから出発すれば、そこに善悪はない。
児童の前には、児童のように恥ずかしがりなさい。
自己の本来に帰り、無垢のままに、児童のような心持ちを発揮しなさい。これが児童に対する最も大切な感化力です。
なお、強迫観念を解脱した人は、すでに人生の修養を積んだ人で、世の中の酸いも甘いも、かみ分けた人です。
凡人以上の人になろうと欲するものは、充分に、強迫観念をくるしまねばならない。
これが直ちに、人生の修養となるのです。
君は無聊に苦しむという。
私らでさえ、無物の一室に閉じこもってさえも、けっして無聊ということはない。
況や欲望充満せる、君ら青年においてをや。
無聊というのは、いたずらに自己本来の欲望を抑えているからのことです。
何事にも、思い立つままに、直ちに手を下して実行し、心に起こる思想や感慨は、そのままこれを工夫し、これを観察玩味していけばよろしいのです。
私は病気臥じょく中、ある時は、一日、八十余の出鱈目歌を作ったこともありました。・・・