悲愴な勇敢な諦め

対人恐怖症(涜神恐怖、赤面恐怖)克服記第二信・・・親切なお手紙、ならびに有益な雑誌お送り下さいまして、厚く厚くお礼申し上げます。

わたしははじめて、今までの長い迷走から脱することができました。

いたずらに苦痛を回避しようとして、止めどもなく苦痛に追い廻されていた過去の自分は、全く愚かなものでありました。

いかに苦しくとも、現在、人生のありのままを見つめていくよりほかに仕方がないと諦めて、いかなる災難も病難も、また自己の不幸もいさぎよく受けていこうとすることに、はじめて気がつきました。

先生はおっしゃいました。「治るなら諦める。治らねば決心しないと、そんなことではいけない」と。

そうです。

そんな今までのような功利的な打算的な決心や、諦めを捨ててしまって、真の悲愴な勇敢な諦めをつけようと思います。

たとえ自分が、苦しみの極み、死んでいったとて、また人生の敗残者となったとて、それも仕方のない事実であるとして、決して私は、その不幸から逃れようとしない。

何らの抵抗なく、苦しんだり、喜んだり、悲しんだりする自分を、勝手に眺めている。

けっして苦しみを抑えようとしたり、喜びを増やそうとしたりする努力は、しないでありましょう。

もし自分が、対人恐怖症のために人から笑われ、悪口されたって、どうにもならない事実だとして、自分の苦しむのをジッと我慢している。

そしてけっして対人恐怖症を抑えようとしないでありましょう。

また神罰が自分に降りかかっても、逃れることのできないものであるから、卑怯な態度をしないで、甘んじてその神罰に服従するでありましょう。

このように、神に対して自分のよいことがあるように願いもしないから、したがって拝む必要もありません。

要するにご教訓の通り、また凡夫のままに、この人生をあるがままに感じ、あるがままに服従することに決心いたしました。

実際、先生のご教訓は、千万無量の芳醇の香りがあります。

そこには、とめども尽きない味わいがあります。

先日、叔父が参りまして、「もっと大胆になれ。

そんな気の小さいことでは駄目だ」

と親切のつもりで、いってくれましたが、神経質者にとって、そんな忠告が、何の益になりましょう。

大胆になろうなろうとしても、なり得ない強迫観念の心情を解しない盲滅法の忠告です。

世の一般の人、しかも医者ですら、そうした誤りにおちているのに、ただ先生のみは、われわれ神経質者の複雑な心理状態を、微に入り細にわたって、余すところなく解剖され、そしてその確たる事実の上に立脚されたものと存じます。

特に、雑誌の臨場苦悶の人の例など、全くわれわれ強迫観念の根本を喝破されたもので、絶大な参考となりました。・・・