ニ十歳、小学教員。
中学一年頃から対人恐怖症となり、人の前へ出れば圧迫を感じ、人々から軽蔑されるように思い、友人は少ない。
また一年ばかり前から痔疾を患い、その後、涜神恐怖を起こして、神様へ尻を向ければ痔が悪くなるとかいうような強迫観念に悩まされるようになった。
昭和八年十一月、初診。
体格は少し弱いが栄養は中等で、別に神経衰弱の徴候はない。
入院療法を始めたけれども、四日ばかりの後、家庭の都合で中止し、郷里に帰って後、通信によって治療することになった。
理屈と感情との血みどろの戦い
対人恐怖症(涜神恐怖、赤面恐怖)の克服記第一信(その要点の抜き書き)・・・この後は、やむを得ず、独り立ちで、この忌まわしい性癖を打破しようと、先生の教えの「苦しみを苦しむこと」に努力しております。
しかしながら、小生の涜神恐怖は、なかなか根強く、心の中にはびこって、これを排除することができず、毎日、煩悶に暮らしております。
というのは、自分の心の中で、神の姿を思い浮かべて、それを冒涜したがごとく妄想するのです。
こんな些細なことで、神が怒って神罰を降ろして、私を病気にするというようなことがあり得べきことでしょうか。
私の理智は、そんな神ではないことをささやいていますが、それを私の感情では、信じてくれないのです。
理智と感情との血みどろの戦いのために、私の頭は、破裂しそうです。
もし先生のようなご高徳のお方の説を聴いたなら、この頑強な感情も屈服して、姿を消すだろうと思います。
・・・また毎日、無益に遊んで暮らしていては、かえって心の苦しみを増すばかりですから、どこかへ勤めようと思いますが、自分では教師のような責任の重い、交際的な方面は、自分に不適当だと存じます。
いかがなものでございましょう。・・・小生の対人恐怖症については、先月、先生から承った通り、「水は冷たいものと覚悟せよ。
人は誰も恥ずかしいものと諦めよ」という決心でいれば、治るでしょうか。
そういう心持ちでいても、人前へ出れば、やはりこの忌まわしい性癖が現われるのを、どうすることもできません。
・・・アア私の前途は、今、暗黒に閉ざされています。
ただ私を明るい世界へお救い下さる方は、先生よりほかにありません。
何卒、前記の事柄について、また神に対する正しい宗教観等をお教え下さいませんでしょうか。
正しい宗教観
対人恐怖症(涜神恐怖、赤面恐怖)の克服記第一通信へ森田正馬の返信・・・お言葉「苦しみを苦しむことに努力します」。
これでは、余分な努力になり、苦しみが重複する。
努力しなくとも、苦しみは到底苦しいから、わざわざ苦しまなくともたくさんです。
降りかかる災難、湧き出した苦しみは、その事実、そのままにあるよりほかに、仕方はない。
これが禅のいわゆる「心頭滅却すれば、火も亦涼し」であって、この時ことさらに、そのままになろうとか、心頭滅却しようとかすれば、それはすでに、そのままでもなく心頭滅却でもない。
神罰や縁起を恐れるのは幽霊を恐れると同じように、あるかなきかの不可思議力に対して恐れ悩まされるのであるけれども、これは凡夫の人情として、致し方ないことです。
われわれお互いに凡夫なのですから、幽霊も神罰も、ただわけもなく、恐ろしいものであることは、致し方ないことと思い諦めなさい。
手っ取り早く、恐れを去ろうとか、感情を没却しようとかの野心は、思い捨ててしかるべきことと思います。
神罰も地震も火事も、受けるべき災難は、受けるべきものと、覚悟しなければなりません。
お言葉「私の感情は、信じてくれない」についても、信ずるとか信じないとかいうことは、地球が円いとか、山の芋が鰻になるとか、信ずるべきは自ら信じ、信ずべからざるは、自ら信じない。
自分から作って信ずることは、できるものではありません。
すなわちこれも、成り行きに任すよりほかに、仕方ないことです。
信じ得ないことを信じようとするから、理性と感情との葛藤となるのです。
このようなことは、小生の智的説明をもって君を納得させることは、不可能です。
君自身の体得と知識とが積んでこなければ、付け焼刃は、かえって有害無益です。
感情を知識によって否定没却しようとする努力は、何卒お控え下さい。
君が教師をやめる必要は少しもありません。
職業はいかなることでも、人生に責任のないところはありますまい。
たとえ隠居しても「世を捨てて山に入るとも味噌、醤油、酒の通路なくてかなわじ」というように、世の中に、自責の感や、欲望の渦の巻かないところはありません。
あたかも世の中に音のしないところがないようなものです。
「涜神恐怖も、対人恐怖症も、諦める決心でいれば、治るものでしょうか」とのお尋ねも、治れば諦め、治らねば決心しないというような決心や諦めは、悪知恵の矛盾である、ということにお気がつかれないのでしょうか。
自分の病気を治してくれれば拝むが、そうでなければ屁をひっかけるというような神様であってはなりますまい。
小生としても、あるいは君の身長を引き伸ばしたり、君の苦痛を取り除けたり、あるいは君の眼を余分に明るくしたりする不可思議力を持ち合わせているわけではありませんから、屁をしかけられてもかまわないことにします。
神に対する正しい宗教観は、あるがままのわが人生の境涯に、敬服、服従することです。
神を出しに使って、我利を計り、苦痛を回避し、罪を他に稼がさないことだと思います。
※参考文献:対人恐怖の治し方 森田正馬著