心の動く事実を明らかに認める
対人恐怖症克服日記第四十五日:宮原君と、市場へ野菜拾いに行く。
乳母車に山盛り一杯持ち帰る。
恥かしいのは、あくまでも恥ずかしい。
特に野菜車の下にあるのをかがんで取り出す時など、人々が自分らをさげすむような目つきをするので、一層恥ずかしい。
食後、拾ってきた大根の整理をする。
対人恐怖症克服日記への森田正馬の回答『車の下にある者までも、なぜもぐり込んで取るか。
それは欲しいからであり、取りたいからである。
その欲しい心の方面は、少しも認めずいわず、ただいたずらに恥ずかしいいやな方面のみを主張し、強情に言い張るのである。
われわれは欲しいと恥ずかしいと、この心の両方面をえこひいきなく、正しく認めて、素直に境遇に順応すれば、強迫観念はなくなるのである。』
対人恐怖症克服日記第四十六日:今日は、先生も一緒に、二、三人の患者とともに、市場へ野菜取りに行く。
大根やトマトや白菜など、たくさんに持ち帰る。
午後、再び先生に従い、野菜拾いに用いる篭を買いに行く。
途々、先生のお話がある。「あの大根や野菜を、縁側に積み上げた時は、面白くて気持ちが良い。
ちょうど、貝掘りに行って、蛤をたくさんに取ったようなものである。
しかし拾う時に人に見られるのは、本能的に恥ずかしい。
乞食のように思われるかもしれない。
が、貝掘りでも野菜拾いでも、われわれは漁師でもなく貧民でもないという何らかの証拠が、見る人の眼識によって自ら区別ができるから、強いて自分を偉そうに見せかけるにも及ばない。
それで先生は、この積み上げられた大根をあつめはやし立て、その効能を述べて、その方に、皆の気を引くようにする。
ちょうど、小児にでんでん太鼓を鳴らして、気を引こうとするようなものである。
しかも強情な子は、ダダッ子ばかりこねて、少しもその方に向こうとしない。
神経質の患者が、自分の苦しいことばかりを主張し、屁理屈をならべて、少しも先生の指導に従おうとしないのである。
これではいつまでも、苦しいことばかりに屈託して、決して愉快な面白い方面を見ることはできないのである。
我々は、常に何事にも、事実を正確明瞭にしなければならない。
これが正しいほど、最も修養された人格者である。
帳簿をうやむやにしては、財産の整理はできない。
神経質者は、自分の心の事実を、あるがままに見ることが、心細くて苦しいから、自らわれとわが心を欺いて、うやむやにしようとする。
金持ちになりたいけれども、働くのが苦しいから、金持ちになりたい心を排し、貧乏で満足する心を養成しようとする。
俯仰天地にはじないものになりたいけれども、修養と勉強とがいやだから恥ずかしがらない性根を作り、から威張りを稽古しようとするとかいうようなものである。
この場合に、一方には貧乏はいや、恥かしいのは苦しいという心と、一方には、金持ちになりたい、人に優れたい、という心とを両立させて、これを明瞭に認める時、はじめて努力が起こり、進歩があるのである。」
※参考文献:対人恐怖の治し方 森田正馬著