”自分を守る必要などまったくない”

対人恐怖症者は自分を守る必要など全くない、このことがどうしてもわからないのである。

それは今まで、自分を守る必要のある世界に生きてきたからである。
対人恐怖症者は我執の強い親に対した時、どうしても自分を守らなければならなかったのである。
自分の忠誠を絶えず親に示さなければならなかったのである。

実はその親もまた、自分に失望した対人恐怖症の親に非難されながら育ったのである。

悲劇は繰り返される。

真実を認めないまま生きようとした対人恐怖症の親は、子どもの弱点や失敗を苦も無く見つける。
そして親自身の自己防衛から子供を非難する。

自分の側に問題がないのに非難されて育った子どもは、やがて大人になる頃には、対人恐怖症、自分に失望している。

なぜなら子どもは、屈辱感を味わって育つからである。

対人恐怖症者は他人に雑言を浴びせることで自分を守る必要を感じた時は、心の中で、自分を守る必要など全くない、そう自分にいうことである。

自分が弱く見られたからといって、いったいそれがどうしたというのであろう。
自己評価の高い人は、他人から弱く見られても、そんなことは問題にしない。

対人恐怖症者のように他人から弱く見られることを問題にするのは、自己評価が低いからである。

そこで、なぜ対人恐怖症者は、他人と違って自己評価が低いのか、そのことを考える必要が出てくる。

それは、自分に原因があるのではない。
小さい頃の周囲の人間に問題があるのだ。

小さい頃、過保護に育てられた為、対人恐怖症のような自己評価の低い人もいるだろう。
表面的に可愛がられて、本質は拒否されていたのである。

自分だけが、他人よりすぐれていないと気がおさまらないなどと言う人もいる。

なぜだろうか?

それは決して、自分の性格とか宿命の問題ではない。
他人から本質的に拒否されたが故の対人恐怖症、自己評価の低さなのである。

しかし、今や大人になった。
世界は違う。
たとえ弱くても受け入れてもらえる。
弱く見られたからといって、軽蔑されるわけでもなければ拒否されるわけでもない。

小さい頃の親の行動は、子どもの心にとって、消すことのできないインクだという人もいる。

しかし、そんなことはない。
一つ一つ客観的に他人を見ていけば、インクは消える。
対人恐怖も消える。
自分が弱かろうと、失敗しようと、受け入れてくれる人はいる。
それが愛情なのである。

対人恐怖症者は弱く見られることを恐れて、虚勢をはってしまったから、小さい頃の感じ方、考え方を、自分の中に固定してしまっただけなのである。

対人恐怖症を克服するには一つ一つものごとを客観的に見てゆき、自分を守る必要など全くないと自分に言いきかせることである。

※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著