四十五歳、荒物商、対人恐怖症
同胞八人のうち、第一子。
教育は、中学卒業、成績は上。
徴兵は第一乙。
二十三歳結婚。
子九人あり。
二十五歳蓄膿症の手術をし、三十歳胃アトニ―に罹ったことがある。
酒は晩酌二合、喫煙する。
本症は発病以来四、五年で、事業が閑になる頃から、著明な動機がなくて、親戚、知人の女の人に会うと、何となくきまり悪い感起こり、震え、動悸、発汗があり、顔が赤面し、口もきけなくなる。
それで、自分の心持ちが、相手の人に知られはせぬか、と苦心する。
自分で、どんな態度をとってよいかわからなくなる。
今まで、別に治療、修養等したことはないが、フロイト説を読んだことがある。
日常生活は、晩十時に寝、朝六時起床、店に出て働いている。
昭和六年九月、診察。
現在、体格は強、栄養良、脈八十四、心肺常、膝反射常、皮膚画紋症尋常等で、身体的に異常はない。
森田正馬問:女の人というのは、一定の人ですか、一般にですか。
対人恐怖症患者答:四、五人のひとです。
森田正馬問:年齢は、いくつくらいですか。
対人恐怖症患者答:三十くらいから、五十くらいまであります。
森田正馬問:男が、女の前で恥ずかしいたって、差支えないではありませんか。
それがなぜいけないのですか。
対人恐怖症患者答:いや、自分のさまざまな醜態が、相手に野心でも持っているように思
われはしないかと思って、辛いのです。
森田正馬問:しかし、何も疚しい悪いことをしなければ、差支えないでしょう。
対人恐怖症患者答:いえ、それはもう断じて、そんなことはありません。
私は品行上、けっして少しも疚しいことはありません。
森田正馬問:あなたは、それらの人に対して、好きとか気があるとかという心持ちのあることを、自分で気づきませんか。
対人恐怖症患者答:いえ、私は決して、野心などはありません。不品行などは、断じてありませんから。
森田正馬問:でも、あなたが恥ずかしいというのは、それは、色気があるからのことです。
色気がなければ恥ずかしいはずはありません。
あなたは、金持ちや偉い人の前に出ると、恥かしいことはありませんか。
対人恐怖症患者答:やはり、それは恥ずかしいです。
森田正馬問:その通り、よくおわかりです。
それで、貧乏人や目下の人に対しては、さほど恥ずかしくないでしょう。
金持ちが恥ずかしいのは、自分が、金が欲しいからです。
偉い人が恥ずかしいのは、自分が、つまらない人間でありたくないからであります。
恥かしいというのは、人から良く思われ、偉いと見られ、好かれたい心であって、すなわち悪く思われ、つまらないものと見られ、憎まれたくない心であります。
乞食などには、少々悪く思われても、あまり痛痒を感じないが、金持ちには、その人に好かれ、偉く見られると、もしかしたら、自分に幸福を分けてくれるかも知れない、という見込みが、多分にあります。
このところにねらいをつけるのを野心とも申します。
しかし、普通の人は、こんなことまでは気がつかず、すなわち自覚せずして、ただ漠然と恥ずかしみを感じ、何かに遠慮がちになることは、金持ちと乞食とをくらべると、ハッキリとわかます。
対人恐怖症患者答:なるほど、そういわれると、その通りわかります。
森田正馬問:同じ金持ちや偉い人でも、他人では、自分と無交渉であるから、何でもない。
知人で身近くなるほど、恥かしさが増してくる。
そんなら、そのようなことは、良くないことかといえば、そうではない。
われわれは、金持ちになりたい、偉い人になりたい、と思う心のあるほど、立派な人であります。
これと同様に、色気があるとか女を好くとかということも、それが多いほど、人間味があり、立派な人間である、ということになります、兼好法師も「色好まざらんものは、玉の杯の底なきが如し」と申してあります。
対人恐怖症患者答:しかし私は、決してその女が好きで、どうしたい、と言う気持ちは、少しもありません。
疚しいことはけっしてありません。
もし私が、その人に気があって、悪い噂が立つとか、その人に迷惑をかけるようなことがあっては、なりませんから。
森田正馬問:いや、女は、あなたにでも、誰にでも、人に好かれることを喜んで、それを嫌うものはありません。
その証拠には、女は化粧をします。
もし女が、夫にばかり好かれて、他の人に好かれるのが嫌ならば、外出の時は顔を洗い、お白粉を落として行くべきはずです。
しかも盛んに化粧するのは、多くの人から好かれたいためです。
あなたも、女の人を好けば、その女の人は、迷惑に思うはずはありません。
ただし注意すべきことは、いくら金持ちになりたくとも、詐欺や泥棒をしてならないように、いくら女を好いても、女をそそのかしたりしてはなりません。
対人恐怖症患者答:なるほど、わかりました。
私はけっして不品行なことをしたことはありません。
森田正馬問:世の中には、金の欲しくない人も、十人に二、三人はありましょう。
その人は、「宵越しの金は使わぬ」というふうに、金が欲しくてすぐ泥棒する人も、色気があってやたらに淫らなことをする人も、稀にはあります。
ソクラテスを、ある人相見が見て、淫乱の相がある、といったことがある、ソクラテスの弟子が、非常に憤慨して、ソクラテスにこのことを告げ口したところが、ソクラテスは、なるほど、自分はその人相見のいう通りだ。ただ、自分は、慎んでそんなことをしないようにしているだけである、といったとのことであります。
金が非常に欲しくて、しかも、不正の行いがなく、非常に色気があって、しかも品行方正であるというのが、世の中に最も偉い人であって、金気も色気もないものは、ただの愚か者、鈍人であります。
それであなたも、恥かしい心の強いほど、立派な人です。
自分は気が小さくて、恥かしがりでいけないとか考えるのは、自分は偉い人になりたい、立派な人間になりたいと思う心が強いといって、悲観するのと同様であります。
対人恐怖症患者答:なるほど、よくわかりました。
なんだか気が軽くなった心持がします。
それでは、別に薬を飲む必要はありませんか。
なお苦しい時に、別に心の態度をどうすればよい、とかいうことはないでしょうか。
森田正馬問:別に病気でないから、そんな必要はなく、心の態度とかいうものもありません。
ただ、自分の心は、かくかくのものである、人情はこの通りである、ということを深く知れば、それだけでよいのです。
そのことを自覚と申します。
赤面したり、汗が出たりするのは、恥かしい時の反応であって、梅干しを見た時、唾が出たり、嬉しくて笑い、びっくりして腹がつりあがる等も、同じことです。
それをどうすることもできません。
ソクラテスでも、自分の好きな女の前では、赤くなります。嬉しい時は笑います。
喜怒哀楽は、人情であるからであります。
対人恐怖症患者答:わかりました、ありがとうございます。
※参考文献:対人恐怖の治し方 森田正馬著