いたるところに仕事がある
重症の対人恐怖症(視線恐怖)克服記、退院後、八月三日の手紙。
「(前略)家に帰って驚いたことは、種々のことに気の付くことであります。(略)今日も、兄の家で、風鈴の壊れたのや、簾の破れたのを修繕しました。
他人の家でも、目につくと気になって、自然と手がでます。
したがって家にいても、退屈するということはありません。
庭に出れば掃除を始め、机に向かえば読書をいたします。
ことに読書は、覚えようとあせらなくとも、読んでいるうちに、自然に要所要所が頭に入ります。
ただ今も、東京からの電車内で、じぶんの最も苦痛としていた学校の本を読み続けました。
本を読みながらも、絶えずどこの停車場を通っているか、ということがわかります。
以前の、注意を集中しようしようとして集中できなかったことを考えて、夢のようであります。
心配になること、気にかかること、全てが病気でなかったことがわかります。
七十日の修養で得たものは、けっして華やかなものではありませんでした。
しかしながら、それは小さいながらも、もっと力強いあるものであります。
自分のただ今の喜びはちょうど十数年間、頭の上に垂れかかっていた雲が晴れ上がったような気がいたします。
いつもならば、母を残して置いても、自分のみ涼しいところへ出かけるのですが、ただ今は、静かに母を守っております。(後略)」
重症の対人恐怖症(視線恐怖)克服記九月二十日の手紙
「(略)昨夏、少し暑ければ、出る汗を病的と考え、毎日体重を測り、一日三十七グラムの減少を恐れ、皮膚を丈夫にするために、やたらに海水浴を致しましたことに引き比べて、昨年の夏休みは、きわめて愉快に送ることができました。
(略)睡眠時間は、わずか五時間くらいで、少しも不足を感じません。
家人は気の毒がりますが、部屋の掃除も、自分で致します。
読書も、きわめて愉快にできます。
今まで意味を理解しようと、あせりながら読んでいた時と比べて、雲泥の差でございます。
夏の海水浴も、ただ面白いからいたしました。
前には、水が耳に入って中耳炎を起こさないかとか、他のことばかりに気を取られておりましたが、今年は、泳ぐことの興味にかられて、耳に水の入ることなどは、気がつかなかったようです。
昨年、偶然、倉田百三氏の『絶対的生活』と言う本を読み、自分の苦痛などは、氏のそれに比すれば、百分の一にも足らないことが痛感されました。ただ今では、いかなる苦しみが起こっても、ただ耐えるばかりであります。
かつては、欲望を否定し、苦痛を取り除こうとして、いたずらに費した力で、今は、自分の欲望に向かって勉強し活動しております。」
重症の対人恐怖症(視線恐怖)克服記十一月十三日の手紙。
「(前略)ただ今では、入院中、先生から受け賜わった種々のご教示が、一々真実であり、有益であったことを、深く感謝している次第であります。
ことに入院中、先生から賜わったお話の中で、自分の病気にあまり関係なさそうに考えていたことが、ただ今では、最も有益に思われます。
(中略)
小生、先日までは、字がことのほか乱雑にて、手紙は、ただ急ぐのみにて書き散らしておりましたが、昨今では、手紙の一字一字でも工夫、努力しております。
以前、「道は近きに在り」ということを読んでおりましたが、今は自分の体験から、「道は自分の現在に在り」ということを感じております。
読書の速度も、以前と比べれば、夢のような気が致します。
十五、六歳の頃から、文学的なものを除いた数学とか教科書とかは、見ても頭が混乱して、読む気も致しませんでしたが、ただ今は、哲学、法学、経済と、手当たり次第に読破しております。
同じ本でありながら、前には一項も読めなかった英語の本が、一日に百項くらい、やすやすと読めるようになりましたことは、自分ながら驚いております。
自分は、英雄でも天才でもなく、ただ神経質の努力主義を、グングン発揮していき、先生のご恩に報いたいと存じます。(後略)」
※参考文献:対人恐怖の治し方 森田正馬著