●弱く見られることを恐れない
”弱い人ほどよく吠える”
対人恐怖症者は自分自身の言動によって、褒められたりけなされたりされなかったら不安になる。
どんなにほめられたり、どんなに叱られても、自分自身の言動が原因である場合には不安にならないであろう。
自分はなぜほめられたのか、なぜけなされたのかがわかるからである。
昼間、人通りのある道であなたが倒れたとする。
通行人は、警察なり病院なりに電話してくれる。
救急車がくる。
病院に運ばれる。
しばらくして治る。
なぜ倒れたのかわからない。
数日後、再び倒れる。
同じことが繰り返されて、
やはり治る。
医者に説明を求めても分らないという。
あなたに原因はないという。
こんなことが繰り返されたら、たいていの人は不安になる。
不安な人は、こんな状態なのである。
他人から非難され軽蔑されると、我々の多くは動揺する。
不安になる。
それは、我々が必ずしも自分の行動によって他人から非難されたり軽蔑されたりするのではないからである。
しかし、他人から軽蔑されたり、非難されたりしたからといって動揺する必要はない。
「なんと疑い深いのだ」と相手があなたを非難したからといって、決してあなたを疑い深いと非難しているわけではない。
あなたが疑い深いかどうかなど、対人恐怖症の彼にとってはさして問題ではない。
対人恐怖症の彼にとって問題なのは、自分が疑い深いと思われはしないか、という不安を克服することなのである。
その不安を克服しようとして、「君は疑い深いねえ」とあなたを非難し、けいべつしているだけである。
しかし、疑い深いと言われれば、たいていの人は不快になる。
対人恐怖症のその人は自分を守ろうとして他人を疑い深いと非難し、実は他人に不快感をあたえてしまっているのである。
対人恐怖症者のようにすぐに他人を非難し軽蔑する人の中には、自分に失望している人が多い。
自分をとりまく人にまで、一緒に他人を非難したり軽蔑したりすることを要求する者までいる。
対人恐怖症者はとにかく、黙ってテレビを見ることも、新聞を読むこともできない。
絶えず自分の見るもの聞くものを非難し、軽蔑していないと気持ちが収まらない。
自分自身への失望が激しければ激しいほど、そうである。
対人恐怖症者は黙って他人の活躍を見ていたら、自分の臆病を認めることになりはしないかと、恐れているのである。
そこでけなす。
それに他人が同調しないと機嫌が悪い。
人生の可能性に直面するよりも、他人を軽蔑している方が優しいのである。
人生の可能性に直面するよりも妻を非難している夫のなんと多いことか。
恋人同士でも同じである。
恋人を非難するのは、恋人の言動に問題があるのではない。
非難する側の心に問題があるのである。
すべての非難がそうだといっているのでは、もちろんない。
問題の所在を明確にする必要を強調しているのである。
したがって、対人恐怖症者のように自分に失望している者は、他人と共に人生を楽しむことができない。
対人恐怖症者のように自分に失望している者は、他人からの批判に対しては、極めて敏感に反応する。
他人からの批判など当然許せない。そのくせ、自分を何ら批判していない人間に対してすら鋭い批判をあびせるのが、自分に失望している人間である。
対人恐怖症である。
自分に失望した者の最後の防衛手段が、人々に罵声中傷をあびせることである。
時々、「私の父は、夕食の時、えんえんと近所の悪口をいい続けます」などと言う人もいる。
この父親は、自分に失望している人であろう。何かを回避して生きてきた人である。
そして自分を守ろうとして他人に罵声中傷をあびせ、他人を傷つけ、結果として自分も傷つけてきたのである。
※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著