強迫観念の連続

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者の既往歴

生後直ちに、父の兄の家に、養子となって育てられた。

小学時代、家では暴れるが、外では恥ずかしがり屋で「内弁慶」としゃく名されていた。

八歳の夏、養父が病気にて転任し、重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者は、日曜にその養父を訪問することができるのみであった。

家庭は、養母と弟と三人だけで、十一歳の頃から父母の間に不和が起こり、父母があうごとに、争いが絶えなかった。

養父との別居生活は、重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者の十八歳の時、養父の死亡の時までつづき、重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者は自ら、この間の家庭生活の不満から、自分の性格をより病的にした、と称している。

しかしこれは、重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者の神経質性格からの批判であるから、直ちにこれを重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者のいうがままに承認することはできない。

それは重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者が一度全治した後には、重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者のこの批判も、しばしば変わってしまうことがあるからである。

七歳の頃、麻疹にかかり、九歳の秋、腎臓炎にかかり、翌年四月まで休学。

この頃から、毎週一回ずつ、必ず医者に健康診断を受け、学校を休んで、横浜から東京の医者へ通った。

このことは十七歳(中学四年頃)まで、正確に継続した。

それも重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者は一人では行けず、常に母に連れて行ってもらった。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者は他人と話す時には泣き声になり、薬局で応対もできなかった。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者は特にこれというほどの病気にかかったことはないが、冬は、常に風邪に侵され、家人からは、常に病弱者との折り紙をつけられ、常に同一の医者にかかっていたが、その間、年中、服薬を欠かしたことはなかった。

このようなふうで、家族と医者とが協力して、患者をして、ますます自ら虚弱者、劣等者と信じさせ、独立心なきものに育て上げたということは、想像にかたくないことであろう。からみれb

けれど、一方から見れば、神経質の素質でないものは、このように柔順に、正確に、几帳面に、親や医者のいうことをきかず、必ず自ら独立心を発揮せずにいられるものではないのである。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者は八、九歳の頃からすでに物事を気にかけ、夜寝る時は、必ずハンカチを枕元に置き、枕は必ず寝床の中央に据え、指を拡げて両側の寸法を測り、枕が床の中央になければ、これが気になって、眠られなかった。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者は、朝、学校へ行くのに、家の玄関を出る時、猿股の紐がゆるんでずってくるような気持ちがし、何回もこれをしめ直して、ついには非常に固くしめねば出かけることができなかった。

これと同じく、着物の襟もゆるむような気がして、いつでも首をしめるくらいにかき合わせていなければ気がすまない。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者はその頃ある夜、海岸の父の家で泊まった時、大きい海鳴がして、津波かも知れないと驚いたことがある。

その後、海鳴の大きいたびに、数町ある海岸へ家人を見にやり、波がどの辺まで打ち寄せているか、ということを聞かなければ、心配でたまらない。

夜寝る前には、床の中で必ず海岸の方に向かい、手を合わせて、海の神々に、津波をおこさないようにお願いした。

この時、海は自分の寝る位置の、頭と右との方に面しているので、両方に一々向き直り、同じ度数だけ拝まなければならない。

このようなことは、十二、三の頃までもつづいた。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者は小学六年には、身体も健康になり、学校を一度も欠席せず、卒業成績は二番であった。

この頃は非常に勉強して、中学の入学試験は、百二十人中三番であった。

なおこの間も、医者の薬は相変わらず、飲み続けていた。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者は一つのことが良いと思えば、驚くほどの根気をもって執着する。

主治医からヨーグルトを勧められ、他の兄弟は皆嫌がって飲まなかったけれども、自分は毎日欠かさず飲み、またオスゲンという薬も、十歳頃から十八歳まで、一日も欠かしたことがない。

卵が脳に良いと聞き、十九歳から今まで、毎日二個ずつ必ず飲む。

横浜にコレラがあった時は、いつも希塩酸を飲み、タカヂアスターゼ、ラクトスターゼを用いた。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者は中学では、一人も友人がなかった。

ことに苦痛であったのは、英語の発音を大声でやらされることと唱歌、正課であったフットボールでは、歩くことが恥ずかしくて、ただ人の後をついて歩くだけであった。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者は中学二年になって、頭痛が激しく、新聞等が読めず、眼科医の診察を受けて、遠視の眼鏡をかけた。

十五、六歳頃、学校で先生が何か皮肉をいったりすると、自分のことをいわれるようですぐ顔が赤面した。

常に人から視られているような感じが強くなり、頬が落ち込み、口が尖るような気がする。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者はすべてのことに、他人が自分より優れているように感じ、代数、物理など、すべて思考を要するものは少しも頭に入らず、少し考えると、目や額が痛くなる。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者は十九歳の九月から、時々不眠があり、多夢になった。

あらゆる本を集めて、不眠症に対する研究をした。

運動不足と考えては、毎日、田舎の坂道を5kmを往復した。

一日三、四回、乾布摩擦をして、大きなタオルを一週間くらいですり切ってしまった。

不眠はますます悪く、自分でカルモチンを服用した。

また夢精が頻発するようになった。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者は某医から、三年間カルシウムを注射して七.五キログラム体重が増した人があると聞いて、同注射を学校を休んで隔日に四ヵ月ばかりつづけたが、何の効もなかった。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者は不眠がますます悪くなるので、カルモチン、アダリン、ヴェロナール等を用いた。またスペルミンの錠剤を服用した。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者はまた貧血のためには、アルゼンブルトーゼ、キナブルトーゼ、肝油、ビタミンBなどを用いた。

主治医の薬以外に、毎月二十円以上の薬を用いた。

ちょっと傷を受けても、サロメチールやオゾンやデスゲンを用いる。

これらは学校へも持って行くことがある。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者が十九歳十二月から翌年の四月まで、感冒を恐れるために、一回も入浴せず、理髪することもできなかった。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者がニ十歳三月頃、〇浜氏に、性的神経衰弱の診断を受け、隔日に、静脈注射、ホルモンとストリキニーネの皮下注射、各一筒を受け、通学の傍ら毎日注射に通い、夏休み中、午前と午後とに一回ずつ海水浴と日光浴とをなし、午後の四時頃、逗子から東京に注射を受けに通い、遅い時には、夜の十一時頃にようやく逗子に帰った。

十一月頃、学校の試験勉強が忙しくなって一時中止するまで、根気よく注射がつづいた。(八カ月間、医師も重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者も、その根気のよいことは驚くばかりであるが、その無智は憐れむべきである。)

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者はこの注射によって安心したためか、一時は不眠が良くなったが、その後再発した。

また些細なことが、終日、長い時は一週間ばかりも、つづいて気にかかるようになり、またフロイトの精神分析で、飛行機の夢は性欲に関係がある、という事を知り、「飛行機、飛行機」とつぶやくようになった。

この頃、赤面恐怖症は、ただ赤くなるばかりでなく、顔全体から、脂汗がタラタラと出るようになった。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者は今年落第すれば、学校を除籍されることになったので、注射をやめたが、毎日、学校へ行くのに汗でビショビショになるので、学校に行くと、すぐ便所に入って、三枚着ているシャツの上と下とを着替え、昼食の時に、再び汗になるから、またシャツを着替えるようにした。

冬中はまた感冒を恐れるために入浴と理髪とができない。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者は予科一年は、三度でようやく二年級になった。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者は五月から、再び〇浜氏の注射を三カ月続けた。

注射のために、背部と腕とは、黒い斑紋が一面にできた。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者はその後さらに種々の症状が現われ、腰痛、不眠、耳鳴、手指の震え、独語、多汗、頭痛、感冒等に悩まされた。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者は感冒を恐れるために、毛糸のシャツと、メリヤスのシャツに、綿入りとドテラとを着、咽頭部にはマスタロールという薬を塗り、咳が出ればすぐに吸引をし、なるべく日向におり、一週間二回くらい医者へ通うほかは、外気に当たらぬようにした。

主治医にカルシウム注射を勧められたがその方はやめて、もう一度、ホルモンの注射をすることにした。学校は、及第の見込みがないので、休学することにした。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者は二十二歳の十二月から、温灸を始めた。

最初、今までの多汗がすっかり止まったので(冬のためとは気づかない)ホルモンのことは忘れて、温灸に熱中するようになった。

それで、朝飯を四杯食し、次に十時に、学校の食堂でパンを無理に詰め込み、十二時に昼食をなし、すぐに温灸へ行き、帰りに三時頃、すし、七時ごろに夕食、夜十時ごろに飯三杯つめ込んだ。(胃の弱いものは、とてもできないこと。)

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者はこのようなことを、二十三歳の二月一杯、根気よくやったところが、腹は太鼓のようにはり、体重が十キロくらい増した。

この温灸で、感冒にかからず、毎日風呂に入ることができ、多汗がすっかり良くなった。

しかし不眠や赤面恐怖は治らず、女の声を聞いただけでも、汗がタラタラと出るようになった。

温灸の結果、便秘になり、ガスが胃にたまるようになり、二、三時間おきに咽頭へ綿棒をさしこんで、ゲーフといってガスを出すようにした。

そのため、再び減食するようになり、温灸をやめた。

食事を二度にしたので、再び前のように、非常に痩せた。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者は十一月頃から二十四歳の四月まで、再び温灸を続けた。

この頃、友人から禅のことを聞き、円覚寺へ行こうと考え、禅の本を多く読んだ。

しかし寺では問答しなければならぬ、ということが気になり、それが強迫観念になって、試験の準備もできないようになった。

寺へは行かなかった。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者はその年の七月、『神経衰弱及強迫観念の根治法』を再読して「あるがまま」ということに気が付き禅のことは断念し、夏休み中、割合にのんきで、不眠も治った。

そして、温灸以前に、身長176cm、体重52.5kgであったものが67.5kgになった。

重症の対人恐怖症(視線恐怖)患者はまた八月の半頃から、特に著書中の「あるがまま」ということが気になり、強迫観念んになった。

※参考文献:対人恐怖の治し方 森田正馬著