恥かしがり屋のままに生きる

次に、四か月後、同年七月の手紙。

(前略)私事、その後ますます元気にて、日々感謝しつつ暮らしております。

私はこの頃、心の底より泉のごとく湧き出づる喜びに浸っております。

私は近頃、先生の御教訓が皆真であって、なんともいわれぬ有難味のあることを、つくづく実感することができました。

私は自分本来の自然ということが、どんなに尊い真実のものであるかに、ようやく感づきました。

この自然のままに生きて行く時、誰しも皆、それぞれの長所は発揮されるものと思います。

ある人は笑って、ある人は泣いて、小胆者も大胆者も、皆そのあるがままに生きて行くことは、涙ぐましいほど尊いことではあるまいかなどと、思うようになりました。

私は今では取り繕ったり、見せかけたりすることは、一切よすことに努めております。

小胆者のままに、恥かしがり屋のままに生きて行くことに決めました。

前には、家のうちにのみ座っていて、いろいろと自分の欲望に対して、その苦痛の大きなことを予想し、どうにも堪えられないと思って悲観していたものが、今はその当然の苦痛の海に飛び込むようになりました。

そして苦痛を逃れようとし、否定しようとしていた昔に比べて、どんなにこれが易々楽々たるものであるか、という事を知りました。

そしてまた、、それがいかに真実なる尊いものであるかを、つくづく感じます。

これに反して、思想の矛盾によってこしらえたものが、いかに空虚な寂しい荒みきったものであるかも知りました。

私は今でも、悲しい時には悲しいながら、淋しい時には淋しいながら、その日その日のなすべきことをしております。

そして小胆者になりきって仕事をします。

人は皆、私の小胆者の恥ずかしがり屋を見抜き、ありのままの私が人々の心に刻まれるでありましょう。

わたしもまた、自分が小胆者であると、真の自己を自覚します。

そこにはもう、少しの見せかけや虚偽はありません。

私はこの頃、何となく真面目な気がして、何をするにもおろそかにできないように感じ、本当の人間の心が甦ってきたような気がいたします。

そして自由に働き、自由に生きております。

私の前途には、希望の光明が輝いております。

振り返ってみれば、何という大きな心の変化でありましょう。

苦痛の淵に足をかけては、臆病にも引っ込んで悲観し、これを逃れようとしてはますますくるしみ、喧嘩腰となり、勝とうとしてはますます弱く卑怯となり、人を羨み世を呪い、ひねくれた根性となって、ほとんど一生を台無しにしてしまうところを先生に救い出され、思いがけなくも、地獄の苦しみより天国の楽しみに、虚偽の生活より真実の人へと、お導き下された神様のような先生へ、私は改めて厚くお礼を申し上げます。(後略)

※参考文献:対人恐怖の治し方 森田正馬著