職業は人によって貴賤あり

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記十二日:起きれば美しい未明であった。

久しく会わなかった懐かしい冬の朝だ。

星がキラキラ光っている。

海岸へ出る。

三崎半島には、もう朝らしい明るい光が芽生えている。

燈台が、まだ光ったり、消えたりしている。

午前中は、麦畑を耕した。

サクサクと快いシャベルの音が、無暗になつかしくなってきた。

昨夜は父母に対してあんなに感激したのに、今日はまた、もとの偶昧さに焼きが戻った。

しかしまたすぐ父母が恋しくなる。

半日農仕事で、肉は綿のように疲れ、精神は思想と感情との衝突で渦巻いた。

そして一歩一歩、ある解決に近づいているとは気が付かなかった。

先生から日記が戻ってきた。

例の通り、赤インキの跡をむさぼるようにして駆け廻った。

私の頭は、今二組に分かれている。

一つは父母の愛にありのままに抱かれようとする心、今一つは、猪突的に、芸術に進もうとする心である。

五分間ばかり、先生の文を読んだだけで、第二の組の心は、ガンと打ち砕かれた。

「この度しがたき愚物め」と大喝されたようにびっくりした。

魂消るとともに、今まで隠れていた真の自分が、心の隅から飛び出した。

真の自分は、「芸術だ芸術だ」と足も空に駆け回った、あんな浮気な空元気ではなかった。

飯を食い始めた。

「あなたは、芸術品を鑑別する力がありますか。」

先生の言葉を思い出して、顔が赤面した。

無惨にも、私の仮面は打ちはがされた。もう恥ずかしくて堪えられなくなった。

畑へ飛んで行って、土を無暗にに打ち歩いた。「あなたは芸術品を」と頭へ浮んでくると「ウンウン」とうなって、全身の力で地を打った。

そのうちに心が次第に落ち着いてきたから、また考え出した。

要するに、私はうまい具合に、芸術という仮面を被って、愚かな弱い自分をごまかしていたのだ。

哲学概論に一日かそこら頭をつっこんだり、まとまりもしない評論を読んでは、無暗に感激して赤線を引きまわしたり、トルストイが何といった、ベートーベンが何と言ったなど、片言ばかり書き集めて、あやしげな芸術の仮面を作りあげて、それで醜いじぶんのことをかくして、父にはむかったり、友を嘲笑ったり、ああ腐った社会だのと悲憤したのだ。

「文学をやったからとて、必ずしも真の詩人にはなれない」と、赤インキはマグネットのように私を吸いつけ、そして首肯させる。

弱い弱い俺は、もう俺の信じている道へ進めないのか。

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記への森田正馬の回答『文学もこれを売らなければならない時、商人よりも卑しく、放縦なるわがままを書く時、狂人よりも危険である。』

仮面をはがれた私の心は、醜いかと思ったら、かえって美しい心だった。

その日、親と子の心は千里も離れていながら、ピッタリと合ったのである。

仮面の取れた私の心は、やっぱり静かに神に礼拝していた。

神の命ずるがままに、親に何らの譲歩も求めず、ただ歓喜して、親の愛に浴していよう。

商人という外形の人間になるとも、永遠に私の心は、美しい芸術に向かって、枝や葉を伸ばしている。

花が咲くか、実がなるか。

そうだ。

それは、私の知ったことではない。

神の知り給うことなのだ。

ああ神はほむべきかな。

永い永い偽りと高慢と愚昧との霧は、静かに、ちょうど今朝の未明のように、神の愛の光によって、消えていった。

似非芸術の欺瞞と、愚昧の苦悩とは、いまようやく終わりを告げて、美しい心は、再び芽を吹き出した。

このニ十歳の淋しい秋を永遠に忘れまい。

ああ神は微笑むべきかな。しずかな眠りに入る。

※参考文献:対人恐怖の治し方 森田正馬著