自信も何もいらぬ

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記八日:ズボンとシャツ一枚で収穫の手伝いをした。

日はキラキラと、青い空に輝いている。

女三人と一緒に仕事をする。

一日中、冗談をいいながら笑う。

牛乳屋が、通りがかりに娘にからかう。

私も一緒になってからかう。

娘は赤面して、言い訳をする。

私は、飯を五杯食って大笑いをした。

すべてが、具合よく行く。

先生の言われる通り、

皆自然のままである。

今でも耳鳴がするが、恐ろしいとも思われなかった。

今日の生活は、先生の下にいた時とその様式こそ違え、その根本義において、全く同じである。

先生、もう一週間も経ちましたから、日記を送ります。

来某最初には、疑ったり、恐怖したりしました。

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記に対する森田正馬の回答『疑う時は疑い、恐怖する時は恐怖すればよろしい、拘泥してはいけない。
良い経験として記憶しておくこと』

私の身体は、労働に堪え得ることを、先生の下で証明されましたが、今また十分に納得できました。

読書は「叙述と迷信」一冊を、一日半で読み上げたことによってわかります。

雨の降る日は、読書するつもりです。

今は試みをしてもよいと思います。

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記に対する森田正馬の回答『けっして試みをしてはいけない』

対人恐怖症の方は、まだ自信ができません。

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記に対する森田正馬の回答『自信を得ようとするのは、自信のない証拠である。自信してはいけない。

ミルトンの語に、「吾人は、本は一冊も読むに及ばぬ。ただ自分の心の奥を探り探れば、大詩人となりうる」ということがある。

君は自然の詩である。

普通の人は、努力して求めても、これだけの詩はできない。これらの思想は、皆人の心の底にある自然のものである。

しかしながら、並々の人は、心の表面を擦過するだけで、すぐに忘れてしまう。

君の特性が、人情の機微をとらえることの傾向を持っているからである。

たとえば植物学者が、珍しい植物をみつけるようなものである。

普通の人も、同じくその植物が目に入っているけれども、いたずらに看過するのである。

君はますますこの傾向を発揮すればよい。

そうすれば赤面恐怖のことを友人に話して心が晴れたように、これらの感想や叙述が、自分を離れて、第三者として、慰めることができるようになる。

また一方には、苦痛を苦痛として堪えていれば、毎朝の洗面の水が冷たくないように、ついいはこれらの苦痛に、気が付かなくなる。

あたかも適草にあきたものが同じ適草を踏んで散歩するようなものである。

一ヵ月後には全治するだろう。

しかし「昨日は良かったが、今日は悪い」などと、自分の病を測量し予想することは、君のすべきことではない。

良くなるかならぬかは、ただ私の知るところである。

君は知らない。

君はただ独りで、勝手に病を心配していればよい。

労働は養生のためにするのでなく、労働のために、興味のままにすればよい。

興に乗っては、無理をしてもよい。』

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記九日:昨夜安眠ができなかったと思うと、赤面するような予感がする。

村の家へ、機動演習の兵隊が宿る。

果たして今日は、時々赤面した。

しかし恥ずかしいだけである。

自制を失うようなことはない。

軍隊が通る時、皆が私を見ていくように思われた。

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記十日:今日から、自炊することになった。

兵隊が出発した。

村人とともに、赤面恐怖なしに見物することができた。

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記十一日:夢を見た。

・・・自分は何の為に生きているのか、生から死まで歩む間が楽しければいざ知らず、もしその道が苦しければ、歩んでもつまらない。

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記に対する森田正馬の回答『われわれは生まれようと欲して生まれたのではない。

生死の目的は、生命そのものである。

もとよりわれわれは快楽をむさぼるために生まれはしない。

何でも苦にすれば、一挙手も苦しい。

苦にしなければ、何でもない。』

私は毒薬を飲んだ夢を見た。

・・・醒めて後、しばらく私は、どこまでが夢で、どこまでが現実だかわからなかった。

・・・今日は、何もかも書いてしまう。

心が軽くなるように願いながら。

・・・私の少年時代は、全くわるかった。

その時のことが、蛇よりも執念深く、私の心の奥へ嚙み込んでいる。

それを除きたいばかりに、私は聖書を読んだ。

聖書は、私に対して、刑罰の鞭だった。

・・・誰が私の第一印象を、しばしば紛らわしいものばかりで彩ってしまったのか。

私を最も愛するという父ではないか。

・・・あまりにつらいから、握飯をこしらえて、山へ出かけた。

・・・四方の天地を見て、悲しんだり、喜んだりした。

村へ入った時、また現実の恐怖に会わねばならなくなった。

夜先生から、日記帳が戻ってきた。

赤い先生の筆を見ると、何ともいえない力が出てきた。

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記十二日:炊事の時間は楽しい。

課せられた仕事ではない。

腹がへるから、飯を炊くのである。

副食物は、ただ一種で足りる。

しかしこれでは、栄養不良になるだろう。

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記に対する森田正馬の回答『滋養物は、特別のものはいらない。

滋養は食欲のうちにある。

人間的活動のうちにあるのである。』

これで見れば、貧乏というものは、さほど恐怖もないらしい。

午前中は、百六十束の藁を、車で数回に運んだ。

後で押すものがエンサカとうなると、私はホイと答えた。

エンサカホイを繰り返していく。

村の人に会うと、ちょっと恥ずかしい。

私は、心を自分から離して、一所懸命に車を曳いて行く自分の姿を見た。

そして吹き出してしまった。

梶棒は、腹で押すに限る。

車はやはり腹で曳く。

ご飯は非常に美味しい。

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記十三日:村へ出て、大根と油揚げとを買ってきた。

・・・神経質のものは、自炊すれば、一日仕事のなくなるという事はないと思う。

・・・人と一緒に、笑い名がら米を搗いた。

口臭が臭くないかと心配になった。

臭くはないらしい。

しかし気にかかる。

今日は雨が降ったが、自分の容態の晴雨計的変化は起こらなかった。

対人恐怖症(赤面恐怖)の克服日記十四日:・・・散歩するにも目的がなければいけないと先生がいわれたが、なぜであろうか。

朝用事をもらって、半里ばかりの農家へ行った。

・・・「今日は、身体が重くはないんですか」と、淋しくなって、一人にたずねた。

「今日は誰も皆、けだるい」と、ちょっと顔を上げて答えた。

誰も彼も疲れているのが分かった。

※参考文献:対人恐怖の治し方 森田正馬著