“あなたは何も期待されていない”
親子関係がうまくいかなかった対人恐怖症などのうつ病前性格の人は、他人に尽くそうとする。
他人に尽くすことは良いことであるが、親子関係がうまくいかなかった彼らは自分を殺して相手に尽くす。
そして、親子関係がうまくいかなかった人は相手に尽くすことで受け入れてもらおうとしている。
親子関係がうまくいかなかった人は尽くしたいから尽くすのではない。
尽くさなければ相手に受け入れてもらえないという感じ方は、どこから出てきたのだろうか?
現代ならば、友達付き合いの中で、それが顕著である。
尽くさなければ友達として認められないと不安なのである。
これは時代を超えて考えられることだ。
以前子どもは小さい頃、尽くすことを期待されて生活していた。
親はその子に、手伝うことを期待した。
女の子なら食事の手伝いを期待された。
男の子は庭の掃除を期待された。親がやっていることなら、部屋の掃除であろうが、トイレの掃除であろうが、とにかくすべて手伝うことを期待された。
もちろん、家の仕事を手伝うことはよいことである。
しかしここでの問題は、手伝わなければ、自分は拒否されるという子供の感じ方である。
親のやっていることを手伝えば、親のいうことをよく聞く素直なよい子になり、親に受け入れてもらえる。
しかし手伝わなければ、ものすごく不機嫌な顔をされて、家の中で身の置き場がなくなってしまう。
親は手伝わせようとするし、子どもは手伝うまいとする。
そこには”グッドファイト”がある。
それならよい。
ファイトがあるならよい。
しかし、不機嫌な顔をされて、家の中に身の置き場がなくなる子どもは、ファイトがない。
そこにあるのは服従依存の関係である。
子どもはあまりにも期待されすぎたのである。
親に気に入ってもらうために、親の自分に対する期待に応えなければならない。
しかも、親はいたって幼児的依存心が強い。
その期待であるからずっしりと重い。
子どもはずっと、その過大な重圧に苦しみながら生きてきたのである。
うつ病になったある学生は、小学生の頃から、朝は親よりはやくおきて家の掃除をしていた。
冬の寒い日、まだ小さい子どもが、誰よりも早く起きて、前夜の火鉢の灰を捨てに寒い表に出る。
そして、火鉢に炭火を起こす。
今の時代のように暖房のない時代である。
そのようなことをすれば”言うことをよく聞く素直なよい子”と親は誇り、受け入れてもらえた。
その親は「みんな子どもの育て方が下手だ」と自慢していたという。
子どもにとって何より怖いのは親の拒否である。
それを武器に、子供を従順な子に育てていく親がいる。
そんな親の過大な期待の重圧で育った子は、他人と会うと、すぐに尽くそうとする。
そして受け入れてもらおうとする。
相手に尽くさなければ拒否される、そう感じてしまうのである。
対人恐怖症である。
男性の性不能も同じである。
女性を満足させなければ捨てられる、そう感じて焦る。
結果として失敗する。
あまりにも期待されすぎてきたのである。
相手に尽くさなくても自分が受け入れられるという経験を、小さい頃もてなかった対人恐怖症者は、とにかくその自分の感じ方の間違いを頭の中でハッキリとさせることである。
そして、他人と会ったら、自分は何も期待されていない、何も期待されていない、と心の中で言い続けることである。
相手の期待に合わせる必要などない。
※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著