対人恐怖は、どうして起こるか。
自分で気がつくような特別の機会がなく、いつからともなく起こった、というものもある。
この時には、それではいつ、自分でこれを病的と思いついたか、ということを問いたださなければならない。
もし対人恐怖症患者が、神経衰弱症とか対人恐怖症のことを読んで、その時に自分も、対人恐怖症ではないかと恐れた、というならば、それがすなわち発病の動機であって、知ったためにはじめて、これに執着するようになったのである。
対人恐怖症患者が既往を追懐して、自分は少年時から特別に恥ずかしがり屋であった、というならば、それはすでに、当然の人情を、ことさらに、独断的に、自ら病的と解釈した、というに止まるのである。
神経質は、常に自分が特別に最も苦しい、ものを気にする、恥かしいと主張して、人と比較せず、人に対して決して同情するということがない。
これが神経質の自己中心的な特徴である。
多くの場合、発病には軽少ながらもいろいろな動機がある。
縁談の見合いの時、お茶を飲む手が震えたとか、入学試験の時、名を呼ばれてドギマギしたとか、学校で「真赤になった」と手をうって皆にはやされたとか、下調べのできない時に先生に指名されたとか、種々雑多である。
仏教哲学では、事柄の生起に、因縁果、すなわち原因と機縁と結果ということを挙げている。
上に挙げたのは、わずかに機縁であって、原因ではない。
このようなことは、常人には日常茶飯事であって、誰でも、これくらいのことで対人恐怖症を起こすものはない。
フロイトは、精神分析により、その対人恐怖症患者の小児期にまでさかのぼって、何か性欲的な感動があったことをつきとめ、これが潜在観念の複合体となり、これが何かの動機で、強迫観念の起こるものであるというのである。
しかし私は、これの原因として、性欲的なものを必要と認めない。
それはあるいは一つの機縁としては、認め得るかも知れない。
しかもこの機縁があって、この症状を起こすものは、そのうちの特殊な人に限られているのである。
皆の人が、誰も起こすのではない。
すなわちその特殊な気質というものが、その原因でなくてはならない。
すなわち原因は内にあって、外界からくる刺激、もしくは境遇は、たんなる機縁たるに止まるのである。
このゆえに私の療法は、精神分析のような困難で、かつ多くの時日を要するようなことはいらない。
森田正馬が入院患者に対し治療した、すなわち森田療法を施した対人恐怖症者は、数百人に達する。
外来診療をしたもの、手紙で問い合わせてくるもの、森田療法の著書で治ったといって礼状をよこすもの、その全体の数は、随分多数である。
対人恐怖症というものは、なかなか稀なものではない。
森田療法を施した対人恐怖症患者が従来やってきた、という治療法を聞けば、種々雑多で挙げ尽くしがたいが、神経精神専門医にかかると、阿片療法を行われることがあるけれども、その副作用が多くてなかなか苦しく、恐怖そのものには、少しも効のあるはずがない。
種々の精神療法を受けることは最も多いが、紅療法などに迷うものも時々ある。
性的神経衰弱とかいって、長い日数、注射療法を受けるものも、往々にしてある。
奇抜なのは、人を見るのににらむようになるとかいって眼筋の手術を受けた者さえもあるのである。
森田療法は一般には、拙著『神経質の本態及療法』のうちにある森田正馬の神経質に対する特殊療法で、家庭的入院療法を用いる。
これは精神の自然発動によって、欲望と恐怖との調和を得ることにある。
これによって、患者がある自覚に達する時には、全治して、けっして再発することのないようになる。
その日数は、平均四十日ばかりで、早いものは三、四週間、長いものは三、四ヵ月を要することもある。
※参考文献:対人恐怖の治し方 森田正馬著