赤面恐怖の名の起こりは、強迫観念より前に1846年、カスパーが赤面症と名づけて報告したのをもって、医学者の観察のはじめとしている。

その後50年を経て、ベヒテリユーが対人苦悶と称して、一種特別の病であるということになった。

その後、赤面恐怖は、ボツボツと多くの学者によって研究され、あるいは変質基礎の上に起こるとか、神経衰弱からくるとかいい、療法としては、あるいは血管収縮に作用する麦角材を用いるとか、催眠剤が効があるとか、阿片療法でその苦悶を鎮静するとかいうふうである

いずれも顔が赤くなるのを防ぐとか、苦悶を鎮めるとかいう着眼点であって、森田療法とは全く逆であり、従来、本症が全く不治であったのは、その着眼点の誤りであり、それがために症状は、常にかえって増悪するばかりである。

また、ある学者は本症を3種に分けて、

1.赤面癖(人に会えば、顔が赤くなるもの)

2.赤面恐怖(人前で赤くなるのを心配し、苦悶するもの)

3.永続性赤面恐怖(同恐怖の永続するもの)

というふうにした。

しかし、これはたんなる机上論であって、対人ということに対する患者の捉われと、これにつり込まれてともどもに捉われた学者の分類であって、強迫観念というものの本態とは全く関係のないことである。

恥かしいとか、怒るとかいう時に顔面紅潮するのは、人間の反応である。

ただ色の黒い人には、それが目立たぬだけのことである。

また人によっては、一杯の酒にもたちまち顔が赤くなるように、交感神経の関係で、反応の多少の相違はもちろんある。

しかるに強迫観念は、これと関係はない。

顔が真赤になっても全く平気な人もあるし、いくらも目立たなくとも、非常に強迫観念に悩むものもある。

前の鼻尖恐怖から考えれば直ちに理解されるべきで、鼻が高いからとて、決して鼻尖恐怖になるのではない。

たんなる対人癖は、ただ気の小さい、あるがままの恥ずかしがり屋である、というに止まる。

決して精神の葛藤でなく、強迫観念ではない。

これに反して、対人恐怖症は、恥かしがることをもって自らふがいないことと考え、恥かしがらないようにと苦心する「負け惜しみ」の意地っ張り根性である。

たんに気の小さいのは意志薄弱の気質から起こり、「負け惜しみ」は神経質の気質から起こるのである。

ゆえに広くいえば、自ら人前で恥ずかしがることを苦悩する症状であって、いわば羞恥恐怖というべきものである。

すなわち周囲に対する対人関係で種々の苦悩を起こすものが多いから、これを対人恐怖症と名づけ、赤面恐怖はその一種であるというべきものである。

人前で、顔や気分や、態度を取り乱すことを苦悩するというのが、最も一般的なもので、あるいは人と応対する時、顔が青くなり、胸がふさがり、声が震え、わきの下から汗が出て、人が自分のこの有様に気付くのではないかと恐れる。

あるいは人の眼を見ることができない、強いて見るようにすれば、にらむようになるという。

森田はかつてこれを正視恐怖と名づけた。

あるいは急に適切に返事ができず、声が震えることを気にして、人に呼び掛けられることを恐れる。

あるいは急に適切に返事ができず、声が震えることを気にして、人に呼び掛けられることを恐れる。

あるいは人に対して、あわててどもることを恐れる。

森田正馬はかつてこれを吃音恐怖と名づけた。

これは多くの場合、電話の応対を苦にして電話恐怖となることが多い。

あるいは自分が、こわばったようなあるいは泣きそうな顔をして、人に対して不快を与える罪悪を犯すとかいって苦悩するもの、あるいは自分の歯並びが悪いため笑うことができぬとか、あるいは胸に毛が多いためにこれを取りのけるのに苦心するとか、あるいは人と面接する時に、口の中に蟲が這うような不快感を気にするとか、口角がぴくぴくするとか、また奇抜なのは、座談の時や電車の中で、オナラが音もなくすーっと出たような気がし、傍らの人に気が付かれはしないかと、立ってもいてもいられない、というようなものもある。

各人てんでに、その思惑や着眼点により、種々雑多、挙げ尽くしがたいものがある。

いずれも赤面恐怖と同意味における対人恐怖症なのである。

赤面恐怖は、その代表的なものである。

次に、恥かしいということは何を意味するか。
それは、人から嫌われないように、好かれたい。

劣等のものと思われず、偉いものとみられたい、と言う感情である。

いいかえれば、人から良く思われたい欲望で、すなわち同時に、悪く思われはせぬか、という恐怖である。

人々は、異性、金銭、名誉、権勢等を獲たいと憧れる。

これを獲るには、人から良く思われることが得策である。

このゆえに、美人や金持ちや偉い人の前では恥ずかしいが、乞食や愚人や醜婦の前では恥ずかしくないのである。

われわれが死を恐れ、病を厭うのは、生の欲望を全うせんがためである。

死ぬ心配さえなければ生きていなくともよい、というはずはない。

生きたくない者が、死を恐れるわけもない。

しかるに神経質の気質は、死を恐れることに執着し、没頭して生の欲望を失念し、病をいたわることに熱中して日常の生活を忘れ、たとえば、正岡子規が七年間、仰臥のまま苦痛にあえぎつつ、しかもあれだけの子規随筆、その他の大部のものができた、というようなことは、思いもかけぬことである。

子規はすなわち、苦痛は苦痛として、欲望は欲望として、これに乗りきったのである。

神経質の見習うべきところはここにある。

神経質は、いたずらに苦痛を廻避し、びぼうしようとするために、自己本来の欲望を無視し、忘却してしまうのである。

死の恐怖と生の欲望との関係と同様に、羞恥の恐怖は、同時に優越の欲望である。

優越欲とは、上に挙げたところの、思うがままに獲たい、という欲望と同様である。

前に「負け惜しみ」といったが、それは同時に「勝ちたがり」であって、勝てぬ残念、勝てぬかも知れぬという心配が、すなわち「負け惜しみ」である。

神経質が、死を恐れるために生の欲望を忘れるように、対人恐怖症は、負けることを恐れるために勝ちたいことを忘れ、羞恥を恐れるために、人に優りたいという欲望を無視してしまう。

しかも勝敗を度外視しよう、毀誉褒貶を超越しようとしても、自己本来の人情を否定することはできないから、結局、苦悩、煩悶に陥ってしまうのである。

※参考文献:対人恐怖の治し方 森田正馬著