“患者の気持ちが分かるのか”
ドイツの正統的な精神医学は、治療者あるいは健康者が患者の気持ちを了解し、感情移入しうるという、ある意味で一方向性の、いいかえると、お前の気持ちはわからないわけでもないよと、一方が高みに立って患者を見下ろすきらいがあった。
この見方を逆転させたのが、当時非正統派のフロイトにはじまる精神分析の見方であった。
治療者だって、患者と同じ葛藤を十分自覚し得ないままに抱え込んでいる。
治療者も患者もともに共有する葛藤を見据えることによってその本体が浮かび上がり、そこで初めて真の治療がなりたつというのが、その主張であった。
まったく革新的な視点の転換であったのだ。
このような主張が出てくる裏には、同じ土俵の上に立って了解可能・感情移入可能とはいえ、あくまで可能というだけであって、容易というわけではないという意味が含まれている。
対人恐怖症の例・参照
たとえば対人恐怖症のS子さんは、「授業中、首を傾けて聞く癖があり、そのために隣の子を見ているように思われたのでしょう。
そのことに気付いてから、いつも隣の人が嫌がっているのではないかと気になりだしました」と述べている。
たしかに、人に見られていると、よほど自信がないと、何事もやりにくい。
見られている人の気持ちになって、自分がその人に迷惑をかけていると思うS子さんの感受性は、それだけをとりだしてみれば自然である。
せめてその程度の感受性、他人への配慮を誰もが持ってほしいものである。
だが、どこに行っても誰かの隣にすわる機会を怖れ、やむを得ずそのような場に置かれた時に、隣を見ないように髪の毛両脇に垂らすS子さんのこだわりは度がすぎている。
それを、そのような感受性だけで、了解可能である、いいかえると、S子さんの気持ちはよくわかる、などといってすますことができるだろうか。
そういう言い方をしたら、S子さんは、やはり自分の気持ちはわかってもらえないのかと、いっそう心を閉ざしてしまうに違いない。
事実、S子さんは、思い切って精神科医にそうだんしたところ、「あなたの年ごろにはよくあること」とあっさり片付けられてしまったことに、強い不満を抱いているようである。
また、君の気のまわしすぎで、実際には他の人たちは迷惑とも何とも思ってはいないよ、などときやすめをいっても、まったく効果がない。
なぜなら、さきに「せめてそのような感受性、他人への配慮を誰もがもってほしいものだ」と述べたことを裏返してみれば、他人が迷惑だと思っているかもしれないという可能性があるということだからである。
S子さんの言い分にも、それなりの現実的な根拠があるのだ。
だからといって対人恐怖症者に「あなたの年頃にはよくあること」、「他人は何とも思っていない」といった気休めの言葉を述べてはいけないというのではない。
そこにも十分の真実が含まれているからである。
治療者も患者もまずはお互いに分かり合えない。
それが治療の出発点である。
その出発点を前提として治療者はもちろんのこと、患者も治療者を分かろうとする努力が大切で、わかってくれないからといってすぐあきらめてしまったら、対人恐怖症の治療は全然成り立たない。
ともあれ、対人恐怖症などの神経症とは原則として了解可能・感情移入可能な心の病、苦悩であるが、可能とはいっても、容易だという意味ではないことを、ここに協調しておきたい。
ところで治療者あるいは健康者と、患者の相互の了解と言っても、そのうち治療者が病の理解において優位に立っていることは、確かである。
治療者とは、いうなれば過去の学問的成果や臨床的経験に基づいて健康者と患者の橋渡しをする存在である。
過去の偉大な治療者、たとえば森田正馬やフロイトは、みずから対人恐怖症などの神経症に罹患したことがある。
実を言えば治療者のなかには、かつて対人恐怖症などの患者であった者も少なくはない。
また不思議なことに、治療、中でも精神療法に熱中していると、治療者が患者に似てくるのがふつうである。
したがって治療者は、健康者と患者の仲介役として最もふさわしい存在であると言える。
※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著