誇りと謙遜などの間を揺れ動く「間」の意識としての羞恥の構造において、個的価値と一般的価値とが定着してくると、そこに優劣基準がはたらいて、個的価値の一般的価値に対する劣位の意識が生じてくる。
この劣位の意識を自己の無力性として感じ取られたものが恥辱の意識である。
この点は、強力性と無力性の矛盾した二面構造による力動によって、自然な羞恥感情の現れである赤面が恥辱の烙印と化してゆく過程によく示されているといってよい。
一見、赤面という、考えてみればどうでもいい些細な問題が赤面恐怖症患者にとって重大な意味を帯びてくるのは、赤面恐怖症患者自身も看過しがちな人生万般にわたる価値をめぐっての抗争がその背後にあるからである。
しかもその抗争は、無力性と強力性の二面的矛盾性によって駆動されている。
赤面恐怖症患者は赤面を恥辱と感じるが、その背後には、他人が期待しているであろう理想像、つまりは一般的価値に達しえない非力な自己の意識があり、それが自己の無力性の側面として意識されるようになってくる。
そしてそう感ずれば感ずるほどに、対人恐怖症患者は自己の強力性の側面によっておのれの無力性の側面を克服しようとし、そのことがまた無力性の意識をつよめ、悪循環構造が形成されるに至るのである。
ここですでに論及した対人恐怖症者の二つの性格特徴を思い出していただきたい。
これまでの論述からもわかるように、その一つである分裂気質と循環気質の二面性は、羞恥の構造と密接に関連しあったものとみることができる。
これらは羞恥存在としての人間の二つの顔といってよく、この二つの顔と羞恥は人間存在の根源において結びついているのである。
これに対して強力性と無力性の二面性は、羞恥の構造に優劣基準が介入して恥辱の意識へと変化してゆく過渡的過程の載面において対人恐怖症者の性格をとらえたものとみることができる。
この二面性は、先の二つの顔と同様に、人間の持って生まれた素質に根差す側面を一方ではもちながら、他方ではその二つの顔とはちがって、クレッチマーの体格―気質―性格という層構造的次元からいうと、幼児期のしつけや社会的文化的影響を受けて形成される性格の層の側面をも兼ね備えたものと思われる。
というのは、この二面性は人間一般に認められるものとはいえ、対人恐怖症ではこの二面の対立拮抗が臨床像の悪化とともにますます先鋭化してくることは、環境要因のはたらく余地の少なくないことを示唆するものである。
対人恐怖症の精神病理学は、この二つの気質ないし性格の特徴の絡み合いのうちにとらえることができる。
その絡み合いによって「羞恥」→「恥辱」→「罪」の倫理的推移が駆動されるのである。
では、このような視点から恥と罪はどのようにとらえうるだろうか。
対人恐怖症論からみると「羞恥」から「恥辱」へと変化するとともに、症状狭窄現象、症状構造の転倒現象、逆説的現象にみられるように、「間」の意識を本質とする羞恥は背景化し、おのれの無力の意識のみが前景化する。
この無力の意識の前景化は、ピアースやワムサーによれば、罪の意識と対比してみた場合、恥の本質的特徴を成すものである。
しかし、対人恐怖症で見る限り、「間」の困惑は、背景化しても形を変えながら患者の自家撞着として現れる。
確かに、患者の意識の前景にあるのは、人前での赤面など、ぶざまな姿をさらす自己の無力の意識であり、その無力に対人恐怖症患者は深い恥辱感をいだく。
そのために対人恐怖症患者は赤面などに示される心の動揺を表さない人間になろうと試みる。
そのさいにはたらくのが対人恐怖症患者の強力性の側面であるが、この強力性は、おのれの誇りや名誉を保とうとし、さらにまたおのれを嘲笑するであろう他者への反感といった我執性に根差したものである。だが対人恐怖症患者は、おのれの我執には気づかない。
また、たとえ気付いても、そう簡単に我をすてきれないのが人間の常でもあろうが、それはともかくとして実は、対人恐怖症患者の切ない願いは、ぶざまな姿をさらさずに人と交わりたいという、要するに他者との没我的な一体化欲求なのである。
この自家撞着は、前景化した無力の意識の背景に、困惑感情をおのずと潜在させることになる。
実際に、対人恐怖症者をみても、その意識の前景に立つのは、無力性・受身性の意識である。
対人恐怖症患者はなんとかしてまともに世間と交われたらと願う。
そしてそう願って挫折すればするほど、対人恐怖症患者は他人に対して卑屈な謙遜、人に変に思われたのではないかという悔みの感情、世間をうまく渡る人たちへの羨望や嫉妬の念に苦しめられ、いっそう無力感をふかめてゆく。
しかし、その背後に、誇りと謙遜などの対立感情に揺れ動く羞恥の構造があることを理解しなくては、恥辱的意識すらその本然の姿をとらえうるとは思えないのである。
この点をどうとらえるかは、対人恐怖症の臨床はもちろんのこと、「恥の文化」といわれた日本文化の型をどうみるかといった点に大きな見解の相違をもたらしてくる。
私はここで、はっきりと述べておくが恥を世間体の意識とみるようなベネディクトにおもねる卑屈な見方を断乎として拒否したい。
また、このような見方では、恥辱と罪の関連もとらえられないのである。
羞恥という人間存在の根源的構造を根底においてはじめて、両者の関連も明らかとなるのであって、この点は視線恐怖へと発展する対人恐怖症の精神病理から教えられることがきわめて多い。
そのさいの導きの糸となってくれるのは、ニーチェの二つのアフォリズムである。
・おのれの不道徳を恥ずることは、ついにはおのれの道徳を恥ずるにいたるべき、階段の第一段である。
・きびしい人にとっては、しみじみとした気持ちは一つの羞恥であり、―はなはだしく貴重なものである。
私たちがもっともふかく羞恥を感ずるのはどのような時であるか。
読者のみなさんも自分の体験に照らして考えてもらいたい。
それは、ことばに表すにはあまりに貴重な、そしてそっと包み隠さずにはいられない脆い感情である。
「下唇をかんで/辛い気持ちで/美しい夕焼けも見ないで」いた娘の心情も、そうであったろう。
「厳しい人」にとっては、そのような気持ちはいっそう羞恥の思いをかきたてる。
この「きびしい」の訳語の元のドイツ語は、ニーチェのこのむhartであり、この語はそのほかに硬い、強固な、不屈の、無慈悲な、といった意味をもつ。
対人恐怖症論からいうと、hartは強力性を表すことばである。
実際、強力性の一面をもつ対人恐怖症者にとって、「しみじみとした」無力性の感情―この感情自体は没我的なものだが、強力性からみると無力性という意味をおびる―を表現するのはきわめて苦手であり、そのような場面では、少なくとも無力性という意味を帯びる―を表現するのはきわめて苦手であり、そのような場面では、少なくとも内心では著しい困惑をきたしがちである。
そのために、たとえば、心ではせつないほどに親密さを求めながら、朝出社しても同僚社員に「おはよう」の挨拶すらできなくなってしまう者もいる。
ニーチェがもっともふかく洞察したように、ひとはしばしば、破廉恥や過度に社交的な仮面のうらに傷つきやすい羞恥心を隠すものである。
強力性は誇り、名誉、反感といった我執性と密接に関連する。
むろん羞恥の構造における我執性と没我性の二面性―そこから分裂気質と循環気質の二つの顔が導き出されてくる―と、優劣基準の介入してくる段階の載面でみた強力性と無力性の二面性とは、そもそもみる視点が異なっているために同一次元のものとしてとらえるわけにはゆかないけれども、強力性が我執性と、また無力性が「しみじみとした」他者との一体化を求める没我的欲求と、相互にずれはありながらも親和的な関連をもってくるのは、いま述べたことから理解してもらえると思う。
先に赤面克服の努力の裏に価値をめぐる抗争があることを指摘しておいたが、換言すれば、強力性と無力性の二面性による対人恐怖症の力動は、おのずと我執と没我の抗争をその根底にひかえもつことになる。
赤面克服の努力が、いっそう恥辱感をふかめ、さらに視線恐怖的な世界を現出させるのも、その根底にある我執と没我の相互的力動を考慮することによってはじめて了解しうるのである。
視線恐怖の世界は、加害性と被害性から成る相互破壊性を特徴とする。
それらの根底にあるものを対人恐怖症患者自身は自覚していないけれども、その本質は次のような構造に還元される。
その構造とは、赤面を無力の現われとしての恥辱の烙印と感じ、強力性の側面によって克服しようとし、おのずと我執的方向性に導かれることになるが、その克服の目的は、実は「間のわるさ」を取り払う事、つまりは他者との一体化、いいかえればしみじみとした感情、優しさなどを含む没我的方向性だという自家撞着的な構造である。
この構造においては、もともと我執は没我が目指すところの他者に対する裏切りを含んでいて、結局は他者との一体化どころか、他者の破壊を惹き起こしてしまう。
このような体験構造における罪の意識とは、他者の破壊、つまり没我的方向性・自己超越性に対する裏切りの意識に根差すものであることは容易にみて取れるであろう。
そして対人恐怖症患者は、拭っても拭ってもつきまとうこの罪、われ知らず得たこの罪から逃れようと、さらに没我的方向性を目指して我執的方向性へと突き進む。
我執から没我へ、没我から我執へとふりまわされるこの循環のうちにますます他者とのずれは著しくなり、一方では恥辱と怒りを、他方では罪の意識をふかめてゆく。
それとともに羞恥感情はますます背景へと押しやられてしまうのである。
そして内面と外面の分離した仮面のうら側には、憎しみとも愛ともいえない不可解な混沌が沈殿してゆく。
視線恐怖の構造において、「間」の意識である羞恥が背景化してもなお強い駆動力を発揮しているのは、容易にみて取れるであろう。
こうみてくると対人恐怖症は私恥が公恥と罪とを媒介する機能をもつとする作田の見解を、公恥と私恥を媒介してその中軸にある羞恥の構造をとおして証示する見事な臨床事例といってよい。
しかも、それだけにとどまらず、ニーチェの第一のアフォリズムが示唆しているように、羞恥は「善悪の彼岸」へと導く駆動力にすらなりうるのである。
ところで読者は、ここで疑問を持たれたに違いない。
というのは、赤面恐怖から視線恐怖への病状変遷において、強力性と無力性の力動に駆動されて臨床的には明らかな変化がみられるにもかかわらず、羞恥を構成する我執と没我の二面性それ自体は、二つの段階にもその根底の構造においては共通に保たれていて、どこにも変化がないようにみえるからである。
では、どこが異なっているのだろうか。
その差異を明らかにするには、見られ見返す視線恐怖症者の視線の悲劇的な闘争と子供の喜劇的な「にらめっこ」を比較してみるのが一番いいだろう。
「恥辱」段階ではあるがなお羞恥感情をつよく残す赤面恐怖では、すでに論じたことからみてとれるように、中間状況においてだけ症状が現われ、親密な人達のあいだでは「間」の意識は共同体的な一体感のなかに融け込んでしまい、逆にまた、見知らぬ人達のあいだでは無名性のうちに希薄化されてしまうのである。
この段階では治療がまだ比較的容易なのも、「間」の共有性がなおかなり残されており、人間相互の信頼を回復しやすいからであろう。
これに対して視線恐怖では間の共有可能性は見失われ、視線恐怖症患者の内面深く根をおろした罪は人間相互のあいだで共有しがたいものと化し、視線恐怖症患者はどこに行ってもその意識につきまとわれ、被害性と加害性の相互破壊的な状況に落ち込んでゆく。
この段階にいたると、治療はいっそう難しくなる。
※参考文献:対人恐怖の心理 内沼幸雄著