対人恐怖症の<視線恐怖>段階は、前節で述べたような四つの特徴から成り立っている。

これらが相互に密接に関連し合っているのをみてとることは容易である。

まず、自分の恥辱がさらし者にされているという被害者意識。

ついで、さらし者にする人達を見返そうとするための攻撃性にもとづく加害者意識。

そこに生ずる罪の意識。

さらに、それを覆い隠そうとする仮面性。

もともと仮面は防禦の手段であったものが、視線恐怖症患者の強力性によって不可解な威力を発揮するようになるのであるが、その仮面とその裏面の混沌化的変貌は相互にはたらき合って視線恐怖症患者の後ろめたさをいっそうふかめ、視線恐怖症患者はその意識に絶えずつきまとわれるために、他人の視線から逃れえなくなって症状発生状況は拡散することになる。

その際、すべての視線恐怖症患者が自覚しているか否かはともかくとして、時に視線恐怖症患者自身がおのれの加害者意識にもとづいて、自分は犯罪者だとか、あるいは存在すること自体が罪だ、とまで述べることに端的に示されるように、この四つの特徴の中核にあるのは、罪の意識である。

視線恐怖症患者に直接接しないと、その深刻さは実感として感じとれないのではないかと思えるが、症例3の患者がジキル博士とハイド氏になったと思って狼狽したのは、たんなる比喩表現ではなく、字義どおりに対人恐怖症患者の心根を震撼する体験であったと考えてもらえばよい。

対人恐怖症患者はなんの犯罪を犯したわけでもない。

また、他人に対して明らかな裏切り行為や身勝手な振る舞いをしたわけでもない。ただ、人前で赤面する自分の弱気を克服しようと努めただけのことにすぎないのである。

それなのにどうして、自分だけがこんなに後ろめたい思いで生きなくてはならないのか、こんな苦しみを負わされるのは、前世からの定めだったのか、とまで思う対人恐怖症患者もいる。

このような罪障感こそ、罪意識の本来の姿であろう。

※参考文献:対人恐怖の心理 内沼幸雄著