欧米諸国にも羞恥の病理といえる対人恐怖症が、その現象型こそ多少の違いがあるとはいえ、少なからず存在するといえそうであり、したがって対人恐怖症の日本的特性をあまり強調しすぎるのは危険であろう。
もともと対人恐怖症が比較精神医学的に脚光をあびるようになったのも、ベネディクトによる「恥の文化」と「罪の文化」の対比に影響されてのことであった。
ということは、恥についての研究が欧米諸国のほうでむしろすすんでいるという意味にほかならない。
事実、その通りであって、精神病理一般における羞恥の役割についても、かなり突っ込んだ研究が欧米諸国でなされている。
また、羞恥一般についても同じである。
日本では言語的表現、とくに笑いや悲しみを表す仕草や行動、人との交際の仕方など、社会生活の様々な局面、また文学、演劇をはじめとする芸術作品、茶道、生花などに羞恥現象あるいは羞恥の「型」が顕著にみられるにもかかわらず、羞恥の問題が顧みられるようになったのは、同じくベネディクトの影響によるのである。
すでに欧米諸国では、ニーチェ、フロイト、シェーラー、サルトルによって羞恥の本質についての優れた洞察がなされている。
とはいえ、欧米諸国でも罪の意識の問題にくらべれば、恥の意識への関心が寥々たるものであることも確かである。
ベネディクトが欧米諸国を「罪の文化」と規定したのにも、それなりの理由があると言えるであろう。
だが一方、柳田国男は「日本人の大多数の者ほど『罪』という言葉を朝夕口にして居た民族は、西欧の基督教国でも少なかったろう」といってベネディクトを批判し、日本人が「恥の文化」よりも、むしろふかく「罪の文化」に生きてきたことを指摘している。
恥と罪の問題には、きわめて錯綜した要素がからんでいる。
精神病理的現象に関しても、単純に割り切れない問題をふくんでいる。
もし欧米諸国において羞恥が抑圧されているとするならば、深層心理学の理論にしたがえば、欧米人は無意識のうちに、日本人よりいっそう羞恥の病理に支配されているとも解しえなくはない。
また、ニーチェのアフォリズムにつぎのような一文がある。
「おのれの不道徳を恥ずることは、ついにはおのれの道徳を恥ずるにいたるべき、階段の第一段である」と。
ここでニーチェが示そうとしたことは、羞恥のもつ精神的な駆動力と人間の生を拘束する罪意識の形骸化をきたしたのではないか。
罪を告白することで罪が軽減される便利な抜け道は、日本ではいまだ確立されていない。
その結果、日本では罪への怯えがふかく根づいているという可能性は、十分に考慮にいれておかなくてはならない。
むろんそのさい、柳田が日本人の罪意識を強調するあまり、「恥の文化などは、たった一度の敗戦でも転覆するかも知れない」と述べた見解も安易に認めるわけにはゆかないであろう。
ともあれ、これらの錯綜した問題を、たとえ精神病理学という限られた視点からでも、とらえ直してみる意義は十分にあると思われる。
幸い日本には、この問題を端的に示す対人恐怖症という神経症が諸外国―残念ながら中国や東南アジアなどの私たちの身近な国との比較精神医学的研究は皆無であり、諸外国といっても欧米諸国ということになる―とくらべて比較的まとまった類型として確立されている。
そこには恥と罪の問題が鮮明にみてとれるのである。
つぎの章ではまず、症状という現象レベルからそれを支える構造へと視点を移し、この問題にアプローチしてみることにしたい。
より深い構造面でとらえるならば、比較精神医学的差異よりも、普遍人間的な問題が現れてくるであろうし、逆にそこから、文化の型の差異についても新たな光を投ずることができるようになるかもしれない。
※参考文献:対人恐怖の心理 内沼幸雄著