“神経症と精神病の違い”
ここで精神病とは原則として区別されている神経症の定義を簡単にのべておく。
神経症とは一般に、対人関係の葛藤にもとづいて生じ、自覚的苦悩が著しく、しかもその苦しみはあくまで現実の枠組みから逸脱せず、現実検討力が保たれている状態をいう。

先にあげた対人恐怖症の三つの例(対人恐怖症の例・参照)でわかりやすく説明すると、次のようになる。
すなわち三人とも対人関係の問題で深刻に悩んでいる。
この三人の内、U男さんの悩みくらいなら身に覚えのある人が多いと思われるが

N子さんやS子さん、なかでもS子さんの悩みとなると、なんと愚かなことをと思う人がいるかもしれない。

けれども、そう思う人達でも、自らを顧みれば、気の置ける人の前で、N子さんのように顔や体がこわばってギクシャクしたことがあることを思い出されるに違いない。
S子さんの悩みとて同じである。

たとえば試験の時、脇の人を見たいけれど、カンニングの疑いをかけられてはと思って、恐怖とまでいかなくとも、目のやり場に窮屈な思いをした経験はだれにもあるのではなかろうか。
あるいは密かに思いを寄せている異性が、たまたま脇に座ったらどうなるかをかんがえてもらっていい。

ようするに、神経症的な悩みは、多少とも誰もが経験する可能性のある範囲を超えない点が特徴であり、またそうであるために、悩み戸惑いながらも、実際には現実を著しく見誤らないで行動しているのがふつうである。

U男さんをはじめ、苦しくとも皆学校に通って仲間との円滑な交流に腐心しているようであり、幻の声(幻聴)や現実離れした確信(妄想)に支配されている精神病の患者とは違って、三人とも現実検討力は十分に保たれていると思われる。

ところで先に、なんの解説も加えずに了解不能、感情移入不能といった専門用語を用いた。
誰にも身に覚えのある体験を手掛かりにして、なるほどそう思い込むのももっともだと納得できる場合を了解可能・感情移入可能という。
この点は、カール・ヤスパース(精神科医から後に哲学者に転進した)が重視した、対人恐怖症などの神経症と精神病をくべつする重要なメルクマールである。

この見解はその後精神医学におおきな影響をあたえたものであるが、いまでは、そう物事は単純ではないと疑問視されている。
とはいえ、一般論としては、いまなお通用する見方で、それ相応の大切な意味合いを含んでいる。

つまり健康と言われる人にも多少とも身に覚えがあり、対人恐怖症などの神経症患者の気持ちを理解しうるし、逆に患者も健康者の気持ちをわかるはずで、つまりは両者とも同じ土俵の上に立っているという意味に他ならない。

※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著