統計的問題で興味深いのは、日本と欧米諸国とを較べて、日本に目立って対人恐怖症者が多いという比較精神医学的特徴である。

この点に関して最初に重要な指摘を行ったのは、森田療法学派の高良武久であるが、そのほか日本に来て比較精神医学的研究を行ったアメリカの精神医学者コーディルや、対人恐怖症の研究者でもありアメリカへの留学経験ももつ山下格も、同様の見解を表明している。

台湾出身で東京大学医学部を卒業後、母校の精神医学教室で研修し、その後台湾の精神医学の基礎を築き、さらにアメリカとイギリスに留学し、いまではカナダの大学の精神医学の教授の地位にある、文字通り国際的な精神医学者といってよい林宗義も、その点を認めている。

このような見解に対して、旧西ドイツでの留学経験に基づいて里村淳は、対人恐怖症の様々な亜型のうち、赤面恐怖は旧西ドイツではわが国で考えられているほどには珍しくなく、日常臨床上必ず出会う神経症であると述べ、同じく旧西ドイツ留学経験をもつ木村敏の類似の見解に同意を示している。

とはいえ里村は、一方ではまた、これらの病態に関する旧西ドイツの学者の関心の薄さに驚きを表明している。

また、彼によれば、ドイツ人の対人恐怖症では「相手に不快な感じを与えるのではないか、いやがられるのではないか」といった日本人の対人恐怖症者によくみられる不安は乏しく、むしろ「相手に圧倒され、相手に見下された自己について悩む」というやや違った訴え方がみられ、さらにまた、日本でよくみられる視線恐怖は、ドイツ人の対人恐怖症では成立しがたいようである。

いまだ個人的印象に頼った情報や研究しかないとはいえ、その他に関連文献の数やその内容なども含めて考えると、欧米諸国では、少なくとも症状という現象レベルにおいて、対人恐怖症が日本に比べて少ないことは確かなようである。

なかでも日本でみられる視線恐怖についての記述は、欧米の精神医学の文献にはほとんどみられない。

羞恥の病理といわれる対人恐怖症に関して、このような比較精神医学的差異があるとすれば、この事実はベネディクトによる「恥の文化」と「罪の文化」の対比にみるような文化的パターンの差異を、精神病理を通して証示しているかにみえる。

だが、はたしてそう簡単に言い切れるものだろうか。
症状という、
言うならば個人的社会的な精神構造全体の表層に現れた現象を精神構造全体と同一視して比較を行うとするならば、かつて文化人類学が犯した大きな過ちを繰り返すことにもなりかねない。

人間はどこでも基本においては変わらないのではあるまいか。

できるだけ共通面を探る努力をおこたってはなるまい。

日本で対人恐怖症の代表ともいわれている赤面恐怖という名称は、そもそも1846年のカスペルの論文に由来するといわれている。

高橋徹によれば、19世紀末から20世紀初頭にかけて西欧ではこの種の症例が多くの研究者の注目をにわかに惹くようになり、フランス、スイス、ドイツ、旧ソ連、旧チェコスロバキアの学者が症例報告や論著を著しているとのことである。

やや時代はくだるが、シルダーは、社会的神経症の名称のもとに対人恐怖症とほぼ同質の病態を記載し、この種の症例が3年間のうちに18例見出され、決して稀でないと述べている。

もともと赤面恐怖も対人恐怖症も舶来の翻訳語なのである。

それが日本に定着して栄え、逆に欧米では先細りになっていった。

では、最近では、どうであろうか。

実をいうと対人恐怖症が栄えているはずの日本では、対人恐怖症は、いまだ精神医学教科書の恐怖症の項に、他の恐怖症と並んで片隅に遠慮ぶかく顔をのぞかせているに過ぎないのに対して、最近イギリスとアメリカでは、類似の状態が名前を変えて恐怖症のなかに立派な位置を与えられることになった。

1980年に改訂されたアメリカの精神医学疾病分類基準DSM-Ⅲは、対人恐怖症を思わせる状態を社会的恐怖症Social Phobiaと名づけ、はじめて恐怖症の一類型として公式に確立した。

その基本特徴は、「他人の目にさらされる可能性のある状況を不合理におそれ、その状況を避けないでいられない欲求が持続してみられることである。

また、この種の患者は、屈辱的ないし困惑的な行動の仕方をとりはしまいかとおそれる。

そのような状況に直面せざるをえない場合には、著明な予期不安が生じ、そのために患者はその状況をさけようと試みる。

具体例をあげると、たとえば、人前で話をしたり行動したりすること、公衆便所を使用すること、人中で食事をすること、人のいるところで字を書くことなどを対人恐怖症患者はおそれる」。

この恐怖症は「明らかに稀である」と述べられている。

社会的恐怖症を起こしやすい性格としては、回避性パーソナリティ障害 Avoidant Personality Disorderがあげられている。

「この性格の人達は、拒絶、屈辱、ないし羞恥に過度に敏感である。

たいていの人達が、自分を他人がどう評価するかにある程度関心をもっているけれども、とくにこの種の人達は、きわめて些細な非難の徴候にひどく心を傷つけられる。

その結果、軽んぜられはしまいか、辱しめを受けはしまいかとおそれて、親密な関係を形成する機会からみずからを遠ざけるのである。

対人的に孤立しながらも対人関係を求める欲求をもたない分裂性パーソナリティ障害の持ち主とちがって、このパーソナリティー障害の人達は、他人の愛情や受容を強く願い求めている。彼らは他人と気安く付き合う能力に欠けるために苦しみ、低い自己評価に悩む」。

このようなパーソナリティー障害は一般によくみられるようであるという。

アメリカと違ってイギリスでは、社会的恐怖症は珍しいものではないようであり、モズレー病院での調査では全恐怖症患者の8%を占めていると報告されている。

面白いのは、女性が60%と多い点である。

症状としては、羞恥感、人前での赤面、レストランでの食事、異性の人と会うこと、ダンスパーティに行くこと、注視された時のふるえなどへの恐怖、さらにまた発汗への恐怖、人に滑稽に見られることへの恐怖があげられている。

性格としては敏感性パーソナリティーの存在が指摘されている。

このような報告をしたマークスは、この恐怖症が珍しくないにもかかわらず、その臨床的特徴を多少なりとも詳しく記載したのは、テイラー(1966年)のみであると述べている。

アメリカと同じくイギリスでも、この種の恐怖症は最近にいたって復権されてきたらしい。

今ではイギリスのもっとも代表的な精神医学教科書に、マークスの研究にもとづく恐怖症の分類がかかげられ、そのなかで立派な位置を賦与されている。

ところで、ここで検討しておかなくてはならないのは、羞恥の病理形態が、その表現型において、日本と欧米では異なっているのではないかという可能性である。

たとえば、先のマークスの研究をみると、シャイなイギリス人には、日本人と同じような対人恐怖症がかなりの数見られると思う人がいるかもしれない。

しかし、マークスが典型例として挙げている症例は、人中で食事するさいの嘔吐恐怖であり、日本での臨床と比較すると、対人恐怖症の中核群から離れた辺縁症状が重視されている。

この点はアメリカにおける社会的恐怖症でも同じであり、公衆便所の使用への恐怖、人中での食事の恐怖、人前での書字の恐怖などは、日本の臨床でいえば、人中で生ずる排尿困難恐怖や嘔吐恐怖、対人恐怖性の書痙に相当すると思われ、これらはむしろ辺縁症状に入るものである。

こうみてくると、西欧諸国ではその社会的文化的背景に関連して羞恥感情が生のままで出にくい事情―むろん日本の対人恐怖症と同じものもあげられているので、程度の差とみるべきであるが―がありそうである。

赤面恐怖といえば、羞恥との関連を読み取ることは容易であるが、公衆便所で傍らにひとがいると、いつまで立っていても小便が出ないので、公衆便所の使用が恐ろしくなるとか、レストランで人と食事する際にフォークやナイフをもつ手がふるえたり、食べた物がのどに詰まって吐きそうになるので外食ができなくなるといった場合、おそらく対人緊張のせいだろうとは容易に察しはついても、その症状自体は、必ずしも直接的に羞恥とは結び付けがたいのである。

実際、このような症状を主訴とする日本の患者をみると、対人恐怖症というよりは狭義の強迫神経症やヒステリーに入れたほうがいいと思われる例が少なくなく、また、対人恐怖症に随伴してみられる場合でも、その症状は羞恥感情が幾重にも屈折して現れていると感じられることが多い。

このような表現型の差についての問題を、対人恐怖症と類縁性がつとに指摘されている敏感関係妄想について検討してみよう。

というのは、イギリスでいう敏感性パーソナリティ―はクレッチマーの名著『敏感関係妄想』に由来し、またアメリカの回避性パーソナリティ―障害もほぼ同じ性格を指すものといってよく、しかもクレッチマーは、すでにそれよりもはるかにふかくその性格像を描き出しているからである。

ここでは、やや長くなるけれども、その主要な内容を紹介しておくことにする。

敏感関係妄想の発生様式には、性格、体験、環境の三要因が関与している。

敏感性性格は、主として無力性の勝った性格で、心理学的にみると強力性の性格と純無力性の性格の中間に位置するものである。

その特徴は、伝導力の欠陥、いいかえれば心理的発散能力の乏しさである。

その性格は、一面では並外れた柔和さ、弱さ、繊細な傷つきやすさを、他面では自意識をともなったある種の野心と我意を示す。

この性格群の代表例は複雑な、たいへん知的かつ価値の高い人格で、小心な倫理性と内面化された過度にやさしい感情生活をもつ繊細で深く感じやすい人達である。

人生のあらゆる厳しさにさらされながらその永続する緊張した情動を深く心の内面に閉ざし、繊細な自己観察と自己非難をを行う。

たいそう感じやすく意地っ張りでありながら、しかしまた、たにんを愛し信頼する能力を特別に兼ね備えている。

頑として自尊心を保ちながらも、臆病で、確乎とした挙措動作に欠ける。

自己に引きこもるけれども、親しみやすく、他人に好意をいだく。また控え目であるが、同時に野心的な努力家であり、著しく社会的に有能である。

要するに、敏感性性格は無力性と強力性の相矛盾した要素から成っているが、そのうちやや無力性の極に傾いた性格である。

敏感関係妄想へと導く体験の作用は、敏感性性格に特徴的な抑留(著者注。発散されずに心のなかにとどめられること。精神分析でいう抑圧に近いが、それほど完全に無意識化されていない)とそれにつづく転化(著者注。精神分析でいう投影の機序に近いが、抑留と関連してそれほど無意識化されておらず、たとえば、迫害されるという妄想をいだくにしても、当人はある程度そうされる理由が自分の側にあることを自覚している)の機序にもとづいている。

敏感性性格に対して疾病を生み出すように作用するのは、きまって恥辱的な不全体験、倫理的な挫折体験である。

敏感性の人達はたくましい利己心に欠け、繊細な情性の深さと良心的な内面性をそなえているため、このような体験によって自己自身との秘かな、そして空しい闘争のなかに容赦なくますますふかく追い込まれてゆく。

そして抑留された観念群が強迫的に反復されるうちに絶望的なまでに高まった感情緊張は、ついには最初の体験内容(恥辱的な不全体験、倫理的な挫折体験)を関係妄想へと転化されすにいたるが、そのさいこの妄想は、内的な自己軽蔑が具象的な外的映像となって投影される形を取る。

性格と体験との心理的相互作用が、敏感関係妄想の場合には、本質的な病因をなしているのである。

それゆえにまた、発病へと導く実際の出来事も、決して任意のものではなく、いつも決まって一定のもの、すなわち敏感性性格者の健康人においても、精神病の罹患にいたらないというだけのちがいで同じような重い精神的葛藤をきたすような種類にかぎられている。

そのようなものとして第一に、性倫理的な葛藤があげられるが、そのほかに職業上の葛藤も同じようなはたらきをする。

環境の作用は、敏感関係妄想の欠くことのできない要因ではないけれども、しばしば共同決定力をもつ原因となっている。

それは対人恐怖症患者の性格や倫理的体験態度とたいそう親和的なものである。

というのも、これらが部分的に環境を作り出し、その環境がふたたびこれらに影響をおよぼすからである。

この場合、「屈辱的な状況における自己感情の緊張」というのが、環境が疾患の成立ちを促すさいの公式である。

したがって、特定の体験作用によるのとまったく同じように、特定の環境作用によっても、敏感性性格の両成分、すなわちその無力性の不全感と強力性の自意識とが特殊な規則性をもって刺激され、こうして両成分間の対立緊張は高められ、ついには発病にいたるのである。

このようなはたらきをするものとして独身の職業婦人の生活環境、古風な小都市の独身女性の社会的宗教的な生活環境、独身の孤独な農夫の若者や労働者階級出身の勤勉な独学者の生活状況などがあげられる。

また、世間から要求されるところは多いけれども認められることが少なく、人目にさらされるけれども、優越した教養によって確立されていない国民学校教員の中途半端な社会的精神的地位(著者注。当時ドイツではそうみられていたらしい)も、これらと近い関係をもっている。

具体例をあげていると、症例4の対人恐怖症患者が、色目恐怖から自分を色気違いだと思い込み、それに関連して近所の人たちから「けだもの」「そこにいるだけで迷惑だ」「死になさい」といわれたという被害的関係妄想をいだいた状態が、いま述べたようなクレッチマーの敏感関係妄想に近い病像と考えられる。

しかしここでもまた、日本の対人恐怖症と敏感関係妄想との違いが認められる。

大きな差異は、症例4では赤面恐怖、視線恐怖という羞恥と密着した症状の長期に渡る発展に基づいて恥辱感をふかめてゆき、それとともに関係妄想が出現しているのに対して、クレッチマーがあげている臨床例には、こういう例は一例もなく、多くは敏感性性格のうえに屈辱的な不全体験、倫理的な挫折体験がはたらいて、ただちに被害関係妄想が出現するにいたっているということである。

いいかえれば、対人恐怖症では羞恥の病理現象が容易にみてとれるのに対して、敏感関係妄想ではその部分は表面化せず、敏感性性格という殻におおわれてしまっているのである。

その点は両者の性格特徴のなかにも読みとれる。

クレッチマーの性格記述を原著にあたってくわしくみると、羞恥や赤面傾向が述べられてはいるけれども、それよりもむしろ、柔和さ、やさしさ、臆病、繊細な傷つきやすさなどの無力傾向と、意地っ張り、我意、自尊心、努力家、野心などの強力傾向の記述に重点が置かれている。対人恐怖症でも、のちに述べるように同じことが言えるけれども、それよりもむしろすぐ目につくのは、人見知り、はにかみ、照れといった現象である。

羞恥についてすぐれた考察を行った、後に述べるマックス・シェーラーの見解に従ってみるならば、敏感性性格では羞恥そのものよりも、それとふかい関係のある相対立する感情、すなわち、謙遜と誇り、悔恨と名誉心、畏敬と反感といった面が強調されるのに対して、対人恐怖症では羞恥感情が比較的なまのままに表出されていると言えるであろう。

「羞恥はさまざまな工夫に富んでいる」とはニーチェのことばであるが、敏感性性格では羞恥の工夫、あるいは同じ意味にもなろうかと思うが、羞恥の抑圧がよりつよいということになる。

同じことが、最近英語圏で注目されている境界例についてもいえる。

境界例とは、神経症と統合失調症や躁うつ病との境界域にある状態という意味をもつ概念で、ここにくわしく述べる余裕はないけれども、要するに幼児的心性を多分に残した性格の持ち主が、些細な環境のストレスによって一過性に分裂病的な被害関係妄想や躁うつ病的な気分変動を呈しながらも、精神病的な人格の崩壊をきたさない状態のことを言う。

この概念については学者の一致した見解がえられておらず、このままでは学問的な使用に耐えないと考えているが、それはともかくとして、この分野の代表的な研究者であるカーンバークの記述を読むと、自己の身体や振舞いに関連した恐怖(赤面の怖れ、人前で話すことへの怖れ、見られることへの怖れ)などの対人恐怖症を思わせる症状がかなり重視されている。

おそらく、境界例といわれる症例の中には、現象的には日本の対人恐怖症とはちがうけれども、それに類する例がかなり含まれているのではないかと思われる。

これらはあえていえば、ドイツの敏感関係妄想に近いものであろう。ちなみに、日本では、対人恐怖症の重症例を境界例の主要な部分として取り入れる学者もいる。

ところで、以上の比較は、精神科医の治療を求めてきた対人恐怖症患者についてのものである。

しかし実際には、この種の悩みをもつ人達は必ずしも精神科を受診するわけではなく、とくに軽症例の多くは、むしろ正生学院のような各種学校に集まってくるようである。

たいへん興味深いのは、アメリカでも最近類似の治療活動が行われ、脚光を浴びている点である。

そのうちもっとも活動的な指導者であるジンバルドの『シャイネス』という本が、アメリカで大きな話題になったという。

この本は、行動療法家特有の楽天主義とアメリカ的なプラグマティズムに横溢し、比較的文化論的および比較精神医学的には、その通俗性ゆえに、かえって興味津々たるものがある。

ジンバルドの主要な見解や調査結果のいくつかをここに列記しておこう。

1.シャイネスは、重度の肢体不自由者と同じほどの精神的なハンディキャップとなりうるものであり、そのために友人はできず、自分の権利の主張や自分の意見や価値観の表明が阻止され、自己の個人的な美点も他人に認めてもらえなくなる。

また自意識過剰となって自分のことだけにとらわれ、明晰な思考も効果的な意思の疎通も困難となる。

シャイネスには、しばしば抑うつ、不安、孤独のような否定的感情をともなう。

2.シャイネスは競争や個人的達成を強調するアメリカ的価値観がはらわなくてはならないつけのようなものなのであろう。

いまやシャイネスという牢獄は、社会的疾患といってよいほどの伝染病的な拡がりを示しつつあり、人々をその牢獄から救い出すために早急の対策が必要である。

3.アメリカ人、ドイツ人、イスラエル人、メキシコ人、日本人、台湾人などの比較文化的調査では、かつてシャイであったという者も含めると、シャイネスの体験のある者は70~90%を占め、差はみられない。

これに対していまなおシャイだと思っているのは、日本人および台湾人がほぼ60%くらい。

一番少ないのはユダヤ系のアメリカ人で、たったの24%にしか過ぎない。

アメリカのカレッジの学生では、その中間の42%である。

いかなる時、いかなる状況、いかなる人に対しても慢性的にシャイな人間は、いかなる文化グループでも2%を下らないが、日本人では10%という高率に達する。

その他いろいろなことが述べられているが、特記すべきほどのものはない。

彼はシャイネスの美点も認めていないわけではないが、基本的には克服されるべきものとみなしている。

このサイトの半分以上は、シャイネスという牢獄から脱却するための戦術にあてられているが、要するにその内容は、私たち日本人からみると、自分を売り込む法とでもいうべきものであって、営業マン向けの指導書のようなものである。

彼は言い訳をしているが、もうそうでなくともこの国には俺が俺がという連中があまりにも多すぎるのではないかと批判されたのも当然なことという印象を受ける。

なお、もう一つだけ述べておくと、欧米の精神医学的文献では、視線恐怖の症例報告は皆無といってよいが、この本にはシャイな人達の視線が合うことへの怖れに言及されており、比較精神医学的になお多くの問題が残されていることを示しているように思う。

※参考文献:対人恐怖の心理 内沼幸雄著