●なぜありのままの心を隠してしまうのか
”自分を不幸にする人を近づけない”
対人恐怖症に苦しむ人は、人間とはどういうものであるかというイメージを、間違ってもってしまったのである。
そのモデルになった人が、もともと心の底で他人を拒否しているような人だったのである。
その人は、尊敬している”ふり”をすると喜ぶような人だったのだろう。
あなたがうれしそうな顔をしないと不機嫌になるような人だったのだろう。
しかし、さいわいにして、実際の人間は、対人恐怖症で苦しむ人が描く人間のイメージとは異なる。
だから、どんなに”ふり”をしてつとめてみても、心温かな人には、「何かあの人、もうひとつわからないなあ」ということになる。
もしあなたが対人恐怖症にくるしんでいるとすれば、次のことをはっきり覚えておかなければならない。
相手を喜ばそうとして、いろいろな”ふり”をすると、あなたを不幸にする人が近づいてきて、あなたを幸福にする人は遠のいていく。
人と会った時、いつもと変わったことをする必要などないのだ。
いつも通りでよい。
そうすれば、自分の幸せにとって必要な人は、自分の近くにとどまるし、自分を不幸にする人は、面白くなくなって遠のいていく。
あなたを不幸にする人とは、あなたの精神を収奪する人である。
あなたに次々と不当なことを要求してくる人である。
あなたに自由を許さない人である。
体裁ばかり気にして何もない人である。
肉体的にはおとなになっているのに、精神的には幼児的依存心の強い人である。
そして、その幼児的依存心を愛情と錯覚している人である。
相手にこうあって欲しいという要求が強く、一緒にいる人に、絶えず、その時々で特定の感情を要求する人である。
つまり、対人恐怖症に苦しむ人は、このような人と一緒にいた。そして、絶えずある一定の感情を要求され続けてきたのである。
不機嫌な人は、他人の不機嫌に敏感である。
つまり、他人の不機嫌を許さない。
その他人というのは、自分より弱い立場にある人間である。
となると、どうなるか。
そのような人と一緒にいる人は、不機嫌であることを許されない。
ある時は悲しい気持ちになることを要求され、ある時は嘆息を要求される。
対人恐怖症に苦しむ人は、一緒にいた人、あるいは自分を育ててくれた人に、絶えずどのような気持ちでいるかを要求されてきたのである。
人間の自然な気持ちは、嬉しいことがあれば嬉しさがこみあげ、悲しいことがあれば悲しみにくれる。
そんなあたりまえのことが許されなかったのである。
※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著