他人に会うと、すぐに不安な緊張にかられてしまうような対人恐怖症の人がいる。
彼らはいったいどのような人間関係の中で育ってきたか。
一口でいえば、彼らは今まで、あまりにもひどい人に囲まれて生きてきたのである。

対人恐怖症の人は信じられない人を信じるように強制されて生きてきた。
不正直な人間を正直と思い込まなければ、彼らは生きてこられなかった。

彼らは、愛情のない、心の冷たい人の中で生きてきた。
その人たちを、愛情深いと自分に無理に思い込ませて生きてきた。
口先で立派なことばかりいいながら、心の底はみにくい人々と一緒に生活してきた。

対人恐怖症、対人緊張の人は、信じられないものを無理に信じるように自分を強制して生きてきた。

それらの結果として情緒は健全に成熟しなかったのである。

何もかもが見せかけの世界、そんな世界で生きてきたら、健全な精神をもてるはずがない。

バーやクラブで、お互いに嘘を承知で飲んでいるのならよい。
しかし、不健全な集団というのは、嘘を嘘と認識したら許されない世界なのである。

嘘に問題があるのではない。嘘を真実と認識しなければならないところに問題がある。

小さい頃からそんな世界で生きてきた対人恐怖症の人に、生きる喜びなどあろうはずがない。
自然な感情はすべて抑圧しなければならないからである。
自分は生きているのだという実感さえないであろう。ましてや生きる感動などあるはずもない。

ではどうしたら自己回復できるか?

まず、自分を一個の人格として認めてくれない人から離れることである。
どんな犠牲をはらってでも、その人から離れることである。
そして、自分を一個の人格として認めてくれる人とつきあうことである。それ以外にはない。

それから、自分自身、自分を一個の人格として認めることである。
誰の所有物でもない、一個の人格をもつ自分自身を認めることである。

自分を一個の人格として認めてくれない人から離れようとする時、周囲はあなたを非難するに違いない。
「おまえはなんて利己主義なのだ」といった言葉をはじめとして、ありとあらゆる誹謗中傷
を浴びせるに違いない。

しかし、その誹謗中傷が激しければ激しいほど周囲の人間があなたを一個の人格として認めず、おもちゃとしてもてあそんでいた証拠である。

あなたが自己喪失に悩み、苦しみ、もだえているあいだ、周囲はそれをもてあそんでいたのである。

あなたを犠牲にして生きてきた人間は、あなたが自分を一個の人格として認めようとしはじめると、おどしたりすかしたりして、なんとかあなたを今まで通り犠牲にし続けようとする。

自分を一個の人格として認めてくれない人から離れて、自分を一個の人格として認めてくれる人のところにいくことは悪ではない。
それこそ人間をつくった者の意志ではなかろうか。
これは普遍的心理である。

対人恐怖症や対人緊張に悩む人は、次のようにいう権利があることを忘れてはならない。
「私に何も期待しないで」

それと同時にこのサイトでは、錯覚についてもふれてきた。

他人に受け入れられるという体験をもたなかった対人恐怖症の人は、他人もまた自分と同じように欠乏動機で働いていると思っている。
欠乏動機とは、他人に受け入れられたいという基本的欲求が満たされない人の行動原因である。

ところが、他人に受け入れられるという体験をもった人は、そのような欠乏動機から行動していない。

つまり、相手にとって重圧になるようなことは何も期待していない。

そこで、今まで自分を苦しめた人に「私に何も期待しないで」といって別れたら、次に必要なことは、これから出会う人達のありのままを正しく認知することである。
そして、心の中で言いきかせることである。
「この人達は私に何も期待していない。だからといって私はこの人達の心を失うことがない」と。

※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著