”心の底の底を見つめる”

対人恐怖症の人はしたいことができないでいるのに、彼らはしたいことをどんどんする。
それはなぜか?
なぜ彼らはしたいことができ、対人恐怖症の人はしたいことができないのか?

それは対人恐怖症の人には依存心があるからである。

対人恐怖症の人が相手の期待にこたえようとしてしまうのは、相手への依存心があるからにすぎない。
相手への思いやりと相手への依存性はまったく反対のものである。

対人恐怖症の人は相手を信じている。しかし信じなければならないのは自分なのである。
おそらく、相手を信じることと自分を信じることは同時に起きるに違いない。
ということは、どういうことか?
もし今信じている相手がいながら、自分を信じられないとすれば、それはほんとうのところ相手を信じていないからである。

空虚感に苦しんだり、恨みに悩まされたり、孤独にさいなまれたりしつつも親を信じている対人恐怖症の人がいる。
いや正確には親を信じているつもりになっている人がいる。
しかしその対人恐怖症の人はほんとうのところ、親を信じていない。
親への不信を心の底に抑圧している。
親に悪く思われることの恐怖から、親への不信を心の底の底に抑圧している。

仕事も辛い、休養していても心が落ち着かない、そんな対人恐怖症の人がいる一方で、仕事に生きがいを感じながら、遊びもおもしろいというひとがいる。

仕事に意味を感じ、遊びも面白いという人は、他者への不信を心の底に抑圧していないのではなかろうか。

親を愛することが倫理にかなっていると思っている対人恐怖症の人がいる。
しかしあいさなければならないのは自分なのである。
相手を愛することと自分を愛することは同時に起きるに違いない。
つまり、毎日不安だったりイライラしたりしている対人恐怖症の人は、親を愛しているつもりで、本当のところ愛してはいない。

対人恐怖症の人は実際は心の底に親への憎しみを抑圧している。
対人恐怖症の人は親に悪く思われることを恐れ、親への憎しみを心の底に抑圧する。
そしてそういう親への感情はそのまま、他人へと転位していく。

※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著