”まず、型をつくる”

対人恐怖症の治療的に大事なのは、これまでのべてきた多くのことがらについてと同様、自分だけがそうだと思い込んでいる対人恐怖症患者に対して、他の多くの人たちも必ずしも型が決まらないことに注意を向けさせることである。
悲しみにとざされた人のほほえみといった美的次元のものでなくともよい。
酒を注がれて断り切れずに困った姿、あるいは緊張して杯ををもつ手が震えると悩む人には、他の人の手の震えを観察させることも大切である。
誰もが同じだとわかれば、おのずと安心感が生まれる。

たしかに対人恐怖症患者の中には、型破れ型というほどではないが、型からの逸脱の程度に問題のある人もいる。
たとえば、出社して「おはようございます」と挨拶しても、相手が挨拶をかえしてくれないと、翌日からはもうまともに挨拶ができなくなる、あるいはもう挨拶しようとしない対人恐怖症患者がいる。

この裏側には対人恐怖症患者のプライドの高さとその傷つきやすさがあるが、対人恐怖症の治療的にはプライドの高さを指摘するだけでは効果は薄い。
対人恐怖症患者自身その点を十分わかっていながら、その始末に困っているからである。

こういう対人恐怖症患者には、まず型からはじめさせることが肝要である。
昔の躾け方はそうだったと思うが、型をつくれば精神はその後についてくる。
場合によっては、こう対人恐怖症患者に話してもいい。
「頭をさげるのは、タダだ」と。
何の損もするわけではないのである。
むしろ体操にもなる。

政治家などはえらいものだ。
自分に投票するはずもない人達にも、手を振って挨拶をおくる。
ここまで身を落とす人間のいやしさなどと批評するのは、いとも簡単だ。
だが、連中がそのあといかにうまい汁を吸おうが、選挙というチェック機能のもつバランス作用はすばらしい。
一党独裁社会の建前の裏側にはびこる汚職、人権無視などよりはるかにましなのだ。

若者は己惚れたがる気持ちとも関連して一般に好き嫌いがはげしい。
だからおのずと、人に好かれるかどうかに過敏にならざるを得ないのだ。
興味深いことに、対人恐怖症は三十歳ををすぎると目立って減少することが統計的にあきらかにされている。
この統計的事実は、好き嫌いのでは仕事にならないという現実にせまられてということもあろうが、それ以上に、人は成長とともに嫌と思った人にも良い面を、気に入った人にも欠点があることを知り、他人の個性に寛容になれることに由来していると思われる。
己惚れの限界を知るようになるからだ。

※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著