”対人恐怖症者が「間」の文化をつくる”

あるテレビ番組で聞いたベテランの外交販売員の話にいたく感心したことがある。
その人によると、このような仕事に向くのはむしろ内向的な人なのだという。
そういえば、自分は内向的でこの種の仕事にはむかないといっていた対人恐怖症者で、外交販売の仕事についたら抜群の成績をあげた者がいる。

思えば、彼の言葉は、人間関係の真実を見抜いているのであろう。
遠慮の気持ちも感じられず、「間」もおかずに口八丁でまくしたてられたら、まずそれだけで買う気を失うのがふつうであろう。
一見口八丁のバナナの叩き売りも、法外かと思われる値引きを要求されると、一瞬困ったような身振りを示しながら損を覚悟といわんばかりにあっさりと値引きを要求されると、一瞬困ったような身振りを示しながら、損を覚悟といわんばかりにあっさりと値引きに応じる。その間合いの見事さはもう芸域に達しているといわざるをえない。

かつて対人恐怖症であった名優がけっして少なくないことは、対人恐怖症患者にとって希望の光となりうるであろう。
「間」に困惑する対人恐怖症者こそ、「間の文化」形成の資格を与えられているといえなくもないからである。

ところで「間」の文化には、それ相応の「型の文化」がともなっている。
近年社会の急速な変化、価値観の多様化、情報の氾濫のため、対人関係における「型」の決め方に困る面がないわけではない。
実際、子どもをどう躾ていいか、多くの親が迷っているのが現状であろう。そういう時代の変化に関連させて、対人恐怖症が第二次世界大戦後増加したといった印象論をのべる学者もいる。
だが実のところ、なんの統計的事実があるわけではなく、本当のところはよくわからない。
すでに森田正馬が戦前、数多くの対人恐怖症の症例をみていることを考えると、おそらくこの種の思い付き的見解には、なんの根拠もないといわざるをえない。

※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著