”まちがった期待に苦しむ”
アメリカの心理学者シーベリーは「私たちにとって、人生は人生そのものではない」と書いている。
そのとおりであろう。
対人恐怖症の人は、他人が自分に期待する人生を自分の人生であるべきだと思っている。
対人恐怖症の人は、人生はこうあるべきだ、なのに今の自分の人生はそうなっていないと嘆く。
しかし、対人恐怖症の人が人生はこうあるべきだと思うのは、単に他人が自分にそのような人生を送ることを期待しているからにすぎないのではなかろうか。
一流企業の社員になって立派な一戸建ての家に住むことを期待された人間は、そのように人生を送れないと悩む。
しかし、人生とは必ずしもそのように送らなくてもいい。
対人恐怖症の人がそのように人生をおくらねばと感じるのは、他人の期待通りに生きることを当然としているからである。
しかし他人がほんとうにそのようにきたいしているかというと、これまた必ずしもそうではない。
他人がそのように期待していると自分が錯覚している場合が多い。
最初の期待がまちがっていたのである。
つまり幼少年期の親の期待である。
何かを間違えて、ひどく怒られたとする。
すると、大人になっても間違うことを恐れる。
英語を訳していて誤訳してしまう。
人間なんだから誰だって誤訳ぐらいする、と気楽に考える人もいる。
しかし青くなる人もいる。
まちがいを指摘されて、自分の人間としての価値が無くなってしまったと感じる人もいれば、ただ、「ああ、まちがっていたか」と思う人もいる。
そして、ただ間違っていたかと思う人は、今度はまちがわないようにしようと思うだけである。
しかし、まちがいを指摘されて自分の価値を低められたと感じる神経症、対人恐怖症の人は、いよいよ劣等感を強くし、今度はまちがわないようにしようとさらに不安な緊張に苦しむ。
対人恐怖症の人が他人の期待の重圧から解放されるためには、やはり自分の中に自律性が出てこなければならないであろう。
われわれの心配の何割かは、他人の期待に重圧を感じることから生まれている。
人生はこう生きなければならない、というようなことはない。
生きられるようにいきればそれでよい。
こう生きなければと思っている対人恐怖症の人は他人の期待の重圧から解放されていない人である。
※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著