”嬉し泣きは日本の文化”
いまの若者は違う、といわれるかもしれない。
しかし、たとえば自分の学校のチームが勝って手放しに喜びを表すアメリカの応援団の女性たちと、勝って涙、涙の日本の応援団の女性たちとの間に見られる感情表現の差異には、なおふかく埋めがたい溝がある。
嬉し泣きという言葉はがいこくにもあるが、その出現頻度の差は、統計をとるまでもなく歴然としている。
この嬉し泣きは、泣いたような笑ったような顔になると訴える表情恐怖の心性とも関連したものである。
対人恐怖症患者は悲しい時に笑みをうかべる日本的心性の持ち主であるが、逆もまた同じで、嬉しくても泣き顔になってしまうのだ。
たとえば、前出のF子さんは、対人関係で折れるか折れないかのどちらか、あるいは笑うか、泣くかのどちらかに片付けないと気がすまない人がらであったが、実際の表情は羞恥的心性をさし示していた。
この種の複合感情の表出に関する統計的研究はまだなされていないが、赤面恐怖傾向や視線恐怖傾向の有無に関しては、学生などを対象にした調査報告がだされている。
多少ともその傾向のある人は、一般の若者のあいだで30%~50%という高率にのぼるという。
なぜ、今の若者でも変わらないかは、一つには幼児期の母子関係に根差している。すでに言及したように、人見知りは母子分離過程に現れる。
この家庭における親の子に対する接し方にはアメリカと日本では判然とした差異がある。
アメリカでは新生児すら親とは別のところに寝かせ、自立心の育成が目指される。
それに対して、日本ではかなりの年齢になっても親子は同じ部屋で寝起きをともにし、おのずと母子密着関係はふかめられてゆく。
かといって、自立の育成をおこたるわけではない。
この躾における二面性は、子の心に依存と自立の二面性をねづよく定着させ、成長しても人見知りの心性を持続させる。
嬉し泣きという複合感情は、幼児がみずからの自立的行動に不安を感じたり、あるいは母の期待に反してしかられたとしても、そのあと優しく抱きしめてもらえた時の、両義的感性に由来するものだろう。
複合感情は日本人の好む陰影礼讃に通じていると思われるが、いずれも「間」という対人関係の両義性への、私たちの繊細な感受性に根差しているのではないか、というのが著者の考えである。
このこととも関連するが、対人恐怖症者は一般的に、過保護過干渉の家庭環境で育っている。
いうならば母なるものをえられなかったことが、日本人を対人恐怖症的にしているのだ。
欧米を父性社会、日本を母性社会として、対比的にとらえる見解に、安易に組したくはない。
だが、対人恐怖症をみていると、その対比にはある一面の真理があると思わざるを得ない。
英語に人見知りという日常用語がないのも「シャイ」を否定的にみるジンバルドの見解がだされるのも、社会の在り方、幼児の躾方にかんけいがありそうである。
※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著