”「間」とはなにか”

「間」といえば、日本における「間」の文化が思い出される。

ところが、「間」という言葉はいろんなつかわれ方がされていて、それらに共通する意味をとりだすことは、大変難しいようである。

南博編『間の研究』には、日本人の美的表現に認められる「間」について、さまざまな分野の人達によってさまざまな論が展開されている。
それらを読んで思うに、「間」を概念的に規定しようとすると、訳の分からないものになるという点が共通しているくらいで、なんともとらえどころがない。

あるいは六代目尾上菊五郎がつねづねいっていたというように、「間というのは魔という字を書く」といっておくだけにするのが正答かもしれない。
興味深いことに、小笠原嘉氏らの報告した対人恐怖症者は、菊五郎の言葉を知ってか知らずか、「間」は「魔」であるという名言を吐いている。

とはいえ、「間」とは時空間における単なる「空白」ではない。ようするに、空っぽの中味のない「空間」でもなく、また単なる沈黙の「時間」でもない。
それは、きわめてダイナミックな、そして緊張をはらんだ動中性の「間」とでもいうべきものだとされている。
西山松之助氏によると、「間隙なき断絶によって非連続に連続させる」ところに「間の美」が成立するという。

「間」をめぐる「自」と「他」の関係とは、自他合体という間隙なき連続性と、自他分離という非連続的断絶からなりたっているといいかえることも可能である。
対人恐怖症患者は、このいわくいいがたいパラドックスに戸惑ってしまうのだ。
「間の美」とは、どこかで羞恥心の強い日本人の心性とつながっているように思われるのである。

抽象的な言葉は、対人恐怖症の治療には役立たないことが多いので、たとえば床の間にいけられた一輪の花を例に挙げて対人恐怖症患者と話し合ってもいい。
床の間で対座している人たちには、一輪の花は動中静の姿をあらわし、対話の間あいをみたしてくれる。
何の本で読んだか忘れたけれども、床の間の花は、互いにそれを見ながら話すための工夫でもあるという。
本当かどうかは別にして、たいへん興味深い。

なにも床の間の一輪の花でなくてもいい。
目の前にある灰皿、仕事上の書類そのほかなんでもよい。
「間の美」とまではいかなくとも、「間」を具体的なものに託し、それを介して人と話し合うのは、直接的な対人関係にこだわりがちな対人恐怖症患者には有効である。

「自」と「他」と「間」の三項図式的な関係においては、間柄性という、いうならばその都度の状況によって「自」と「他」にそれ相応の主体性の分け前が賦与される。

このような関係においては、間接的な、ものを介しての対人関係がもっともふさわしい。
ものを介さない生身の人間の直接的な関係では、主体性を全面的に引き受けざるを得ない。
すると、主体者同士の葛藤におちいりかねず、愛憎の関係に引き込まれる危険が高まる。
視線恐怖とは、実はそのような関係のあらわれなのだ。

※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著