”「誠実な人が恐ろしい」心理”

幼い頃の体験は消せないインクだという人もいるが、決してそんなことはない。
他人の好意に接しているうちに、世の中の人間は決して自分の親のように受け身の人間ばかりではないと実感できる時がある。

たえず注目を要求し、世話されることを望んでいる親に育てられた子は、親の要求を満足させなければならず、要求を満足させられない時は批判される。
しかしおとなになれば、周囲にいる人間は決してそんな要求をもっていないと実感できる時が来る。

ただここで最大の問題は、そのような親に育てられた対人恐怖症の人は、好意の人をさけてしまうということである。
自分のことをほんとうに思いやってくれる人を避けてしまう。
ここが問題なのである。

この世の中には、好意的に他人の言動を解釈してくれる、温かい思いやりのある人はたくさんいる。
それらの人と接することは、客観的状況としてむずかしいわけではない。
しかし当の本人が、どうしても避けてしまうのである。

自分を偽って生きてきた対人恐怖症の人は、どうしても誠実な人がこわい。
一緒にいると、何となく落ち着かないのである。

それは心の底で自分を信じていないから、他人のほんとうの誠実さに自分が動揺してしまうからである。
これは、すべてについていえることであろう。
ケンカが強くもないのに強そうに空威張りをしている子どもは、ほんとうにケンカの強い子を避けるであろう。
社会的に何らの業績もあげていないのに偉そうな顔をしている人は、実際に業績を上げている人と会うのはいやであろう。

ところが実際には、ほんとうにケンカの強い人は弱い人をいじめはしない。
ほんとうに社会的に社会的に業績を上げている人は、やたらに他人を軽蔑などしない。
むしろ逆である。
大学教授などでも実績のない人は、えてして他の教授の言動に批判的である。

ところが、自信のある人は自己防衛の必要がない。
他人を恐れていない。
そこで、やたらに他人の弱点をみつけてそれを批判することもなくなる。

それなのに、対人恐怖症、対人緊張の人は、そのような自信のある人を避けてしまう。
そして実績がなく、自己防衛から他人の弱点を見つけては批判する人の方に引き寄せられてしまう。
そして、対人恐怖症など、心の病はどんどん悪化していってしまう。
話しをもどすと、好意の人がいないのではない。
対人恐怖症の人は好意の人をさけてしまっているのである。
好意の人を必要としている対人恐怖症の人ほど、好意の人を避けているのである。

※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著