”悲劇と喜劇”
対人恐怖症者は、「間」の悪さを避け、さらに自分の無力性を克服してものに動じない人間になろうとし、結局は敗者に終わる。
用意周到にあらゆる挫折の可能性を克服しながら勝者への道をつきすすみ、そのすべてが裏目にでて運命的に破滅してゆくところに、悲劇の真骨頂がある。
それも人生の一面であるがゆえに、悲劇的な芸術作品に接して、私たちは一種のカタルシスをおぼえる。
悲劇の主人公は、つねに孤独であらねばならない。
破滅の瞬間にいたって、人智をこえた存在に帰一し、孤独や、それにともなう鬱屈した感情は浄化されてゆく。
しかし、人生はもう一つ、浄化の方法を用意してくれている。
それが喜劇である。
喜劇では、敗者になることによって逆説的に勝者となる。
この点を、対人恐怖症の治療に関連付ける。
著者は視線恐怖の患者に、幼い頃「にらめっこ」につよかったかどうかを訪ねることにしている。
その結果わかったことであるが、一度も負けたことがないという対人恐怖症患者が少なくなかった。
いったい、この遊戯で勝ったほうが勝者で、負けて目をそらしたり、笑い出した方が敗者だと単純にいえるだろうか。
むしろ人間的には、負けて笑いだしたほうが勝者といえなくもない。
実際、最終的に勝者をも笑いに包みこませるわけだから、最初に笑った方が勝者であろう。ここでも負けた悔しさは、笑いの中に浄化されてゆく。
「にらめっこ」は「間」のわるさを利用した遊戯ともいえるが、喜劇もまた、「間」のわるさを活用する。
対人恐怖症患者にとっては、それは悲劇のもとになるが、同じことを喜劇にすることもできるのだ。
喜劇役者は「間」のわるさを逆手にとって笑いに転化させる。
喜劇役者がよく使う手は、その場の雰囲気とはずれたこと、場違いなこと、へまなことをやらかすことにある。
その場の空気が緊迫していれば、いっそうその喜劇の効果を増す。
治療的には、対人恐怖症者はもう悲劇的精神は身についているので、喜劇的精神をよびさますことが大切である。
その際なるべく具体例をあげて対人恐怖症患者と話し合うことが肝要である。
タモリの困ったような顔、テレビの喜劇の場面、あるいは赤面恐怖症の青鬼の傑作なセリフをとりあげてもいい。
とはいえ対人恐怖症の治療は、杓子定規にゆくものではない。
たとえば、ある対人恐怖症患者は「間」のわるさを逆手にとって、場違いなことばかりやって仲間を笑わせているうちに、にやけ顔が身について、いまではみんなに気味わるがられ、職場でもどこでも人が自分を避けると訴え、職を転々としている。
そして、自分はダメな人間だとさかんにいいはる。
つらくてもがんばって弱さを克服しようとこころみ挫折してゆく悲劇型が一般的といっていい対人恐怖症のなかにあって、このような症例はどちらかというと珍しい。
悲劇型でも調子にのると、つぎつぎに面白い話題を見つけ出しては過度に多弁になる人もいるので、本質的には共通の心性がはたらいていると思われる。
ただ表面的にその面のみが目立つという意味で珍しいというほうが正確かもしれない。
悲劇と喜劇は、一枚の紙の表と裏のようなものであろう。
喜劇もペーソスにうらうちされて、ふかみがでる。
悲しみの影のない道化師は、道化師としては落第だ。
暗い影があってはじめてふかみが生まれる。
近頃、その影のないお笑い番組がはやり、ねあかな人間がもてはやされ、ねくらな人間を疎外する言動が横行し、それに迎合する思想家さえ現れる始末である。
そうであれば、お笑い番組嗜癖症的になって、みずからを見失う対人恐怖症患者がでてきても不思議ではない。
このような対人恐怖症患者には、ゆるんだネジをしめ直させ、日常生活の生真面目さ、厳しさ、堅気の精神を身に着けさせることが必要だ。
※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著