“真実を直視する小さな勇気があればいい”

ハイ・コントロールでローサポートに育てられた対人恐怖症の人、愛されないで支配されて育てられた対人恐怖症の人は、権威主義的性格になりやすい。

この権威主義的性格の本質はサディズムとマゾヒズムである。
つまり、対人恐怖症の人は自分を略奪する人、狡猾な人、卑怯な人に対してマゾヒスティックに接し、自分を愛してくれる心の温かい人にサディスティックに接する。

他人に悪印象を与えることを恐れて、怯えて生きている対人恐怖症の人は、自分の依存欲求の挫折からくるやさしさを、的外れの人に向けてはならない。

対人恐怖症の人はむけるべき人でない人に向かって自分のくやしさを爆発させているかぎり、いつになっても問題は解決しない。

狡猾な人間は正面から嘘をつく。
怯えて生きている対人恐怖症の人にはこのことがわからない。
したがってだまされる。
”正面から嘘をつく”
ということは怯えて生きている対人恐怖症の人をもてあそんでも平気だということである。

怯えて生きている対人恐怖症の人に対して痛々しいという感情をもたないから、相手の弱点を利用して平気で自分の利益をはかる。
そのあまりにもあっけらかんとしたずうずうしさに、人はだまされる。

怯えて生きている対人恐怖症の人は、自分は誰といる時腹が立つか、逆に誰といる時悪印象を与えはしないかと警戒しているかをはっきりさせることである。

対人恐怖症の人は紙にはっきりとその人達の名前を書いてみることである。
決してこの点をごまかしてはいけない。
状況を歪曲して解釈してはいけない。
直視することである。

そして、腹の立っている人としてリストアップした人にどんなに攻撃性を向けても、対人恐怖症の不安な緊張から解放されることはない。
攻撃性を向けるべき相手は、今悪印象を与えることを恐れている人として名前を書いた人である。

対人恐怖症の人のくやしさとは隠れた攻撃性である。
なぜ隠したのか、その点に視点を定めない限り、イライラは解消しない。
銃口を向けるべき相手が誰かそれを間違えていては戦いに勝てるわけがない。

たった一度の人生を過度のストレスにさらされて恨みがましく生きてもいいというなら、話は別である。

隠れた攻撃性をむけるべき相手をまちがえて生きてきた対人恐怖症の人は、自分の人生を振り返ってみた時、なんとも虚ろな穴がぽっかりあいていることに気が付くのではないだろうか。

対人恐怖症の人は他人に好印象を与えることばかりに腐心して生きてきたが、ふりかえってみれば何もない。
何事も成し遂げてはいないし、心を交流できる友もいない。
打ち込める仕事も、心を許せる親しい仲間も、没入できる趣味もない。

それでもなお、心の温かい人を敵にまわし、自分を痛めつける狡猾な人に迎合していくというのであれば、もう仕方ない。
相手が弱いと見ればすべてを犠牲にすることを要求してくる狡猾な人に、骨の髄までしゃぶられ、自分の人生をメチャメチャにされるよりほかに仕方がない。

多くの人は悪人を恐れる。たしかに悪人は時にわれわれの経済生活をメチャクチャにし肉体を破壊する。
しかし恐れるべきは狡猾な人間なのである。

狡猾な人間は弱い者の精神を破壊する。
そして狡猾な人間に精神を破壊される者は、幼い日、本当の意味で愛されたことがなかった者であるというのは、何と悲しいことであろうか。

しかし同時に、幼い日、本当に愛されたことが無くても、人間の真実を直視して勇気をもって生きる者は、狡猾な人間の魔の手から逃れることができる。
これは、人間の偉大さをあらわしているのではないだろうか。

※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著