”本当に欲しいものを買えない”
『販売は断られた時から始まる』という本の中に、次のような一文が出てくる。「ほんとうの意味のセールスマンシップとは買い手が欲しがっている品を売ることで、セールスマンが売り込みたいと思っている品をうりつけることではない」
おとなになってからも幼児的依存心を克服できず、こんなことをしたら他人に悪い印象を与えるのではないかと、自分の行動を規制している対人恐怖症の人は、自分の欲しいものをセールスマンから買うことができなかった人であろう。
逆に、セールスマンが売り込みたいと思っている品ばかりを買わされた人である。
そうであれば、対人関係について誤解するのは当然である。
他人に悪印象を与えることを恐れている対人恐怖症の人は、また、他人と理解し合うこともできない。
理解し合えた人同士のあいだでは、恐れはないのが当然であろう。
ハイ・コントロールで育てられ、怯えて生きている対人恐怖症の人は、他人に悪印象を与えることを恐れる。
しかし、対人恐怖症の人は誰に対しても恐れているわけではない。
ある一定の周囲の人達に悪印象を与えることを恐れている。
むしろそれ以外の身内の人達に対しては、日頃の欲求不満を爆発させさえする。
われわれは誰に悪印象を与えることを恐れているのであろうか。
また誰に陽気な印象を与えようとしているのであろうか。
対人恐怖症や対人緊張で疲れる人が好印象を与えようと必死になっている相手というのは、実は”ずるい”人間ばかりなのではないだろうか。
対人恐怖症の人が陽気な人間であるという印象を人に与えようと必死になって陽気に振舞う、そんなのはほんとうの陽気さとは全然関係がない。
しかし、われわれが涙ぐましい努力をして好印象を与えようとしている人間が、この世で最も卑怯な人間であるとは、なんと悲しむべきことであろうか。
ずるい人間というよりも、こすっからい人間といったほうが適当な人がいる。
そのような人間を恐れて自分を殺し、好印象を与えるべく努力している対人恐怖症の人の姿は、ある面からいえば滑稽であり、ある面からいえば、悲惨である。
サラ金業者がいる。
お金に困っていない人は、もちろん他人からお金を借りたりしない。
また、お金を当面必要としているがすぐに返せる人、信用のある人は、低い利子で貸してくれる金融機関を見つけることができる。
実は、もっともお金に困っている人が、もっとも高い利子のついているお金を借りることになってしまう。
かくてサラ金地獄が生まれる。
しかしお金のことではなく、精神的なことについてもこれと同じことが言えるのである。
ほんとうの愛をもっとも必要としている対人恐怖症の人が、ずるい人にかこまれている。
そしてサラ金地獄と同じように、そのずるい人達にいじめぬかれている。
いじめぬかれるというより、もてあそばれている。
哀れにもてあそばれながらも、サラ金地獄と違って、それに気が付かない。
精神的地獄に突き落とされながらも、自分を突き落とした人にきらわれまいと必死になる。
サラ金からお金を借りた人は、苦しめられれば憎む。
しかし対人恐怖症の人は、自分を精神的地獄に落とした人に対しては、サラ金業者に対するように憎まない。憎むどころか、その人に高く評価してもらおうと、いよいよ自分を犠牲にし、いよいよ陽気に振舞う。
その結果がイライラであり、不安な緊張であり、不機嫌である。
人間というものは、ほんとうに不思議な感情の動きをする。
自分をもてあそび、利用する人に対してつとめて陽気に振る舞い、その歪みから出てくる不満を、関係のない人や、自分をほんとうに思いやってくれる人に爆発させる。
自己評価が低くて怯えて生きている対人恐怖症の人は扱いやすいのである。
アメとムチで面白いように動かせる。
お世辞をいっておだてれば何でもしてしまう。
ちょっと不機嫌な顔をして拒否の姿勢をちらつかせれば、青くなって迎合してくる。
ずるい人間が、この扱いやすい対人恐怖症の人の周りに集まってくる。
心の病んだ対人恐怖症の人は、自分を略奪する人にへつらい、自分を愛してくれるものを恨む。
心の病んだ対人恐怖症の人に必要なことは、自分のまわりにいる欺瞞に満ちた人間の化けの皮をはぐことである。善良な顔の後ろに強欲を隠しているずるい人間の正体をあばくことである。
おびえている対人恐怖症の人は、狡猾な人間は、相手が自分を恐れていることを知ると相手をトコトン利用しにかかる。
狡猾な人間は、相手が自分に悪印象を与えることを恐れているのを敏感に感じ取る。
相手が自分によく思われたがっているという対人恐怖症の人の依存欲求をするどく見抜く。相手が自分の評価に左右されることを見て取る。
そして、相手の時間もお金も労力もすべて自分の自由になることを知る。
そして相手を心の底で馬鹿にしながら、尊敬しているような顔をしてりようするのである。
おだてれば、相手がどうにでもなることを狡猾な人間は知っている。
劣等感のある対人恐怖症の人はおだてに弱い。
劣等感をもち、おびえている対人恐怖症の人は、依存欲求の挫折を恐れているのである。
あるいは、その挫折から恨みを心の底に隠しているのである。
そして、その恨みという受身的攻撃性を、逆に自分を愛してくれる人たちに向けていく。
対人恐怖症の人は依存欲求の挫折からくる”くやしさ”を他人に向けていく。
心の温かい愛情豊かな人は、狡猾な人と違って、相手を脅かさない。
つまり、依存欲求の挫折をおそれていたり、挫折から恨みを心の底に宿している人にとって、心の温かい人はもっとも攻撃性を向けやすいのである。
これが心の病んだ対人恐怖症の人が自分を略奪する者にへつらい、自分を愛してくれる者を恨む理由である。
心の温かい人間は、相手が他人に悪印象を与えることを極度に恐れていることを感じれば、痛々しく感じ、そんなに恐れることはないんだといたわろうとする。
他人に悪印象を与えることを極度の恐れている対人恐怖症の人は、依存欲求が強いから、他人と対等の関係を結ぶことができない。
結べるのは上下関係である。
すると、自分をいたわる人に出会うと安心し、下とみなして攻撃する。
※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著