”自分を見つめ直す”
対人恐怖症の<赤面恐怖>段階や<表情恐怖>段階の治療はもちろんのこと、<視線恐怖>の治療も、その要諦は、「間」をめぐる「自」と「他」の関係にその焦点を向け変えていくことにある。
「間」の困惑にはたらきかける治療技法についてはまた後でとりあげるとして、その前に、性格構造をどう治療の場でとりあげたらいいか、またI男さんのような例にどう対応したらいいかを論じることにしたい。
人間は時に、失敗したとき、みずからの性格を顧みることがある。
性格を知ることは、それ自体で治療的かつ予防的なはたらきをする。
だが、自分の性格を知ることは、そう優しいことではない。
自分ではわからない自分の性格の一面を、他人に指摘されてはじめて気づくこともよくある。
対人恐怖症にかぎらず、自分の性格は自分が一番よく知っていると思っている人にかぎって精神的混乱をきたしやすい。
したがって対人恐怖症の治療にあたっては他人が不可欠である。
治療者とは、そのような他人の特殊な一人である。
他人としての治療者に耳を傾ける余裕は、対人恐怖症の治療上なによりも大切である。
とはいえ治療者とて、なんでもわかるわけではない。おたがいの言葉がわかるようになるには、時間が必要である。
一般に、対人恐怖症者は、劣等意識にとらわれて、みずからのプライドの高さに十分気付いていない場合が少なくない。
その点の指摘は対人恐怖症の治療的に大切である。
そのプライドの高さはさまざまな価値領域の一部にだけあらわれることもあるので、
自由連想法的雑談を通して対人恐怖症患者のさまざまな場でのあり方を知り、その面を浮き彫りにしておくことが大切である。
対人恐怖症の病理を人に依存する心性に求める理論に立つ人達は、とかく対人恐怖症患者が人に良く思われたいとばかり思っているといった点の自覚を求めがちである。
しかし、こういう見方は、誇り高い人間にとっては人格的非難となりかねない。
たとえばA男さんは、電車の中で職場の仲間を見かけると、近寄って話しかけずにはいられない。それを人によく思われたいからだというのは、いとも容易である。
というより、安易な捉え方である。
よく聞くとA男さんは、家族、友人、職場の人達に対して、自分を犠牲にしてもよくつくす善意の人であった。
その積極性は、甘え、依存性といった言葉では十分にはとらえきれるものではない。
対人恐怖症で問題なのは、人に対して好意や善意で接し、相手と一体化しようとしながらも、相手がそれを受け止めてくれないときの傷つきやすさである。
人に良く思われたいといった他人の評価を気にするだけの受け身の姿勢では、たとえ傷ついてもその傷はあさい。
人間は人に尽くそうと思って受け入れられない時最も深く傷つくのだ。
A男さんのように積極的にふれあいを求めて傷を深めてゆくタイプと、逆に傷つく可能性を怖れて人との交わりから逃避するタイプの二型がある。
後者のタイプも、人に良く思われたいといった依存心では説明不能である。
なぜなら、そう思われたいなら、人との交わりから離れるのは、その意図にもっとも反する行動となるからだ。
ともあれ対人恐怖症の治療的には、この傷つきやすさ、そのためのふかい悲しみ、さらにはその裏返しの怒りや悪意の楽しみなどを話し合うことが、とくに被害妄想的となる対人恐怖症患者には大切である。
※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著