●なぜ優劣にこだわるのか
”それでも優劣のこだわる”
対人恐怖症の性格には、強力性と無力性の矛盾した二面が際立つ。
その二面の対立緊張によって、自分の無力性の面がたえず意識され、対人恐怖症患者は対人関係で過敏になる。
このような性格をクレッチマーは敏感性性格と規定したが、その性格特徴はほぼ対人恐怖症にもあてはまる。
しかし、強力性、無力性といった言葉には、優劣にこだわっているという意味あいがこもっている。
なるほどたしかに、誰もが劣者にはなりたくはない。
優劣に執着する気持ちは、実に根深いものであり、自意識をもった人間は、その点では猿山の猿よりも悪質だ。
私たちの周辺には、それだけがすべてだと思っている人間がなんと多いことか。
優劣へのこだわりは、なにも地位や財産にかぎらない。
地位や財産がなくとも、血統にこだわる人もいる。
異性にモテるかどうか、喧嘩に強いかどうか、スタイルがいいか否か、話し上手か口下手か等々、あげればきりのないほど、様々な価値領域で優劣が競われ、そのために嫉妬や懇恨にくるしめられているのが私たちの日常でもある。
もううんざりだと、誰もがふとむなしさを感じるときがあるに違いない。
しかし、優劣を競うことが人類の文明をきずく原動力となっているのも、また厳然たる事実である。
ときに感じるむなしさをやわらげてくれるのは、優劣を競った結果が、自分以外の誰かの役に立つ場合である。
その誰かとは、自分の家族、一族郎等、身近な集団、自分の住む町や村、自分の帰属する国、さらには人類全体と、人によってさまざまである。
さまざまであるばかりか、実に錯綜している。
小さな親切が人類全体に役立つこともあろう。
逆に有害なはたらきをすることもある。
人類の為と思っておこなったことが国家に損害をあたえ、家族を不幸のどん底に陥れることだってある。
ひとのためにと思ってなした善意が誤解や非難の的にされ、虚しい思いをさせられることは、日常よくあることがらである。
しかし、たとえそのような思いをさせられても、人に尽くす気持ちを欠いたら同じく人類の文化や文明の破壊につながる。
優劣の競い合いにおいて優者としての自負心をもとうとすることも、逆にまた他者に畏敬の念をいだき、他者に尽くそうとする心も、精神発達的にみれば、ともに根深い心性なのだ。
たとえ虚しい結果に終わるにしても、そうせざるをえないのが人間の性である。
強力性と無力性の矛盾は、優劣基準でみた人間の心の切断面である。
だが、そのもっと根底には、他者と距離を置き自尊心を失うまいとする我執性と、じぶんはどうであれ他者につくさずにはいられない没我性の、対立緊張がある。
我執性と没我性は、それぞれ自他分離的志向と自他合体的志向をいいかえた言葉であるが、それらはまた、社会心理学的にみれば、個人主義と集団主義に置き換えることも可能である。
対人恐怖症患者は我が強くて、自分を曲げず、批判精神に富み、孤高を好むところがあるが、その一方で安らげる集団を求める気持ちも強い。
対人恐怖症患者の病前をみてみると、たとえばA男さんのように、集団に調和しえているかぎりは、きわめて明朗、活発、社交的といった人達も多い。
発病後も少なくとも外面的には、人と顔を合わせると近づいてきてはなしかけるなど、実に気さくな人がらとみられていたに違いない。
内向的、非社交的といった面とは別に、もう一つの顔を持っている点が、対人恐怖症者の根底にある性格特徴なのである。
※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著