”恐れている者に立ち向かう”
自分が最も価値をおき尊敬してやまないはずの人を、実は疑っている、いや単におそれているだけだ、という衝撃的な事実に直面できた人は、もう生きることを恐れない。
自分にとって神のような人に対して、自分が抱いているほんとうの感情は何か?
実は不信と恐怖だけである。
この対人恐怖症の衝撃的な事実を見据える勇気を持った人は、もう自分自身を恐れることなどないであろう。
自分を規定していたものは”信頼と愛情”であるとしんじていたが、実は自分をより根源的に規定していたのは”不信と恐怖”であったという対人恐怖症の衝撃的な事実から眼をそらさなかった人は、もう、他人が自分をどう思うかなどということは恐れない。
意識における”信頼と愛情”、無意識における”不信と恐怖”、この対人恐怖症の衝撃的な事実を自分について受け入れた人は、自分の中にフツフツとして生きるエネルギーが湧き上がってくるのを感じるに違いない。
そして、「ああ今までは生きていたのではない、こういう感情が生きるということであったのか」と驚くに違いない。
ところが、この事実を拒否してしまうと、なんとなく自分は漂っているという不確かさをまぬがれないであろう。
そして、終生自分を自分の敵として不快感をもちながら生きていくことになるだろう。
この衝撃的な事実から眼をそらした者は、対人恐怖症や抑うつ感情や欲求不満などあらゆるマイナスの感情から逃れることはできない。
おそらく拒否している当初はイライラし、人からどう見られているのかが気になる対人恐怖症になり、憔悴するであろうが、やがては無気力に沈んでいくであろう。
もはや何ものをも望まなくなったうつろなまなざしだけが残るに違いない。
生きることを意味あるものにするためには、心の底で恐れているものにたちむかっていく以外にはない。
恐れている者から逃げていては、人生を意味あるものにするのは不可能である。
事実を受け容れることを勇気といい、事実を否定することを虚勢という。
自分が”信頼と愛情”の人と思っていたのが、実は、”不信と恐怖”の人であると思わなければならなくなるということは、ちょっと考えるとたいへん不快なようであるが、決してそうではない。
自分を”信頼と愛情”の人と思っていた時のほうがはるかに生きることに不快感があり、自分について”不信と恐怖”という事実を受け入れた時の方がはるかに安堵感がある。
自分が心の底で恐れ、表面で最大の価値をおいている人と一緒になって、どんなに他人を非難してみても、それで心が安らかになるわけではない。
「あんな奴はくだらない」「あの人は不勉強だ」「あの人は本当のことを知らない」「あんな奴は内輪でしか相手にされないよ」など、その人と一緒にどんなに他人を非難してみたところで、心の安定は得られない。
自分が最大の価値をおいている人と他人への非難を唱和することは、安易であり、逃げである。
まさにその人に立ち向かっていく勇気以外に、心の安定を得る道はないのである。
対人恐怖症の人は自分が最大の価値をおき、尊敬してやまない人の正体をはっきりと見極めようとする勇気こそ、今必要とされているのである。
対人恐怖症の人はその人の歪んだ価値観に従って生きてきたからこそ、心の底では、自分を弱々しく感じてきたのである。
そして自分にとっても、その歪んだ価値観が、傷ついた自尊心を防衛するのにもっとも都合がよかったということを忘れてはならない。
対人恐怖症の自分は親の支配欲を満足させるための存在にしかすぎなかった。自分は親が万能感を味わうための格好の対象にしかすぎなかった。
このように自覚することによってしか、精神的不安や対人恐怖症を克服する道はないのである。
※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著