”人生の節目の人見知り”

人見知りは、近年の研究によると、生後六か月というきわめて早期の、しかも精神発達における最初の大きな節目に現れる現象である。

一般に人生の節目というと、親の保護からはなれて、自立した成人として社会に巣立って行くまでの一つの危機的段階である青年期や、人生の第一線からひく準備をし人生の総決算をせまられる、同じく危機的段階である初老期をあげるのがふつうである。
この二つの時期が人生の大きな節目であることは、この二つの時期に精神障害が多発するという、古くから知られた事実によって傍証されているといってよい。

しかし、乳児期は乳児期なりの、おおきな節目をこえていかなくてはならない。
乳児期がこのような発達の節目をどう乗り越えるかは、その後の精神発達に巨大な影響をあたえる。
この点を解き明かしたのが、フロイトに始まる精神分析学である。

フロイトが神経症や対人恐怖症の病理においてとくに注目したのは、父―母―子の三者関係の葛藤、いわゆるエディプス・コンプレックスであった。
しかしその後、精神病へと関心がむけられるとともに、それ以前の発達段階の母と子の二者関係の重要性が浮き彫りにされ、神経症や対人恐怖症の病理においても母子関係が注目されるにいたっている。
なかでも日本では、早くより母性の役割が重視されてきた。

対人恐怖症には、人見知りという、母子の二者関係の重要な節目にあらわれる現象がふかくかかわっている。
人見知りの「見知る」とは「顔見知り」という場合の「面識がある」という意味の他に、「見分ける」という意味を持った言葉である。
面識がなりたつためには、見分ける認知機能が不可欠であり、したがって二つの意味は同根といっていい。
人見知りとは、まず第一に、親しい人(母)と見知らぬ人(他人)とを見分ける認知機能なのである。
このような認知機能が発達しなければ、その後の対人関係がなりたたないことは、あえていうまでもない。

しかし、人見知りが単なる認知機能にとどまるものではないことは、その発生状況をみれば歴然としている。
もし、認知機能にすぎないなら、乳幼児は見知らぬ人を見かけただけでも人見知りを示すはずであるが、実際には単に見かけるだけでは決して人見知りは生じない。
人見知りが生じるのは、見知らぬ他人が乳幼児に、親しみを込めて接近する場合である。
その時乳幼児は、接近する他人に親しい(母)を見出そうとすると同時に、そうではないことを知って、困ったように顔をそむけ、母の胸に顔をうめたり、母の後ろに身を隠す。もし相手がときおり会う祖母であれば、いったんそむけかけたのをやめて祖母の胸にとびこんでゆく。
その時示す乳幼児の誇り高さは、王者のそれに劣らない。
人見知りの発生状況は、対人恐怖症の<赤面恐怖>段階のそれと全く同じである。

※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著