”あんなに明るい子が、なぜ・・・・?”
”従順なよい子”の内面の苦悩を、なんと周囲の人は理解していないことだろう。
北風にマントをはぎとられ、寒さに凍えているのが”従順なよい子”なのである。
対人恐怖症の依存心の強い周囲の大人を喜ばせなければ生きることができなかった子ども、依存心の強い周囲のおとなに迎合して、ありとあらゆる不当な要求に対してさえ、感謝しながら生きることを強要された子ども、それが”従順なよい子”ではないか。
それにしても社会はなぜこれほどまで”従順なよい子”について誤解するのだろうか。
痛めつけられ、ただの一度として自然な生き方を許されなかった対人恐怖症の子ども達、それなのに、そのような子どもが事件を起こすと、必ず「なぜ?」と新聞は書き立てる。
私はそのような新聞を読むたびに、そのようなニュースの報道を聞くたびに、怒りに震える。
ある時、著者は広島に講演に出かけた。
ちょうどその日、広島で中学三年生の女生徒の自殺があった。
広島で手に入れた『中国新聞』は、三面のトップに「ある日突然に、なぜ・・・・」と見出しをつけていた。
著者はたまたまその時PTA連合会の講演だったのだが「なぜ・・・」どころか「やっぱり」だと怒りをぶちまけてしまった。
新聞は「どうして・・・」と書く。
しかし「はたせるかな・・・」と書くべきところなのである。
このような事件でいつも出てくるのが「なぜ、あんな明るくて従順な子が・・・」である。
しかし、はたしてそうだったろうか。
その子は決して心の底から明るい気持ちになったことは一度もないに違いない。
明るい気持ちを期待され要求され、自分を殺して”明るい気持ち”をよそおっていたのである。
対人恐怖症である。
心の底には、暗い陰鬱な気持ちや怒りや不満や対人恐怖症や攻撃性など、明るさとは正反対のあらゆる気持ちを抑え込んで生きていたのである。
ただ”明るく生きる”ふりをすることだけしか許されなかったからである。
それを「なぜ、あんな明るい子が・・・」となる。
その子が心の底で流した涙、怒り、対人恐怖症、不信、それらを思うと、可哀そうでたまらない。
その広島の女子中学生の自殺でも、担任教諭は「・・・素直な子だった」と述べている。
素直な子の自殺、これは親の完全犯罪である。
心の中では涙も枯れ果てるほど辛くても、表面は笑顔をつくらねばならなかった彼女。
対人恐怖症で不機嫌な人間は、他人の不機嫌にもっとも敏感である。
不機嫌な人間は他人の不機嫌を許さない。
もし強い立場にある人間が不機嫌だったらどうなるか。
不機嫌な人間というのは、いつも不機嫌である。
情緒の成熟した人間が時々不機嫌になるのとはケースが違う。
だとすると、弱い立場にある人間は、対人恐怖症になり、自分の自然な感情を殺して、明るいふりをしていなければならない。
自宅の勉強部屋には「なにもかもいやになりました」という遺書があったという。
東大名誉教授の斉藤勇さんが孫に殺された事件があった。
その時も孫についての報道は、ほぼ同じであった。
その時も新聞の見出しはやはり、「明るい彼がなぜ?」であった。
※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著