”剣士は「間」におどらされる”
素朴に日常の対人関係をみてみれば、そこにはどこかに無理がある。先の例
参照
を素直に考えれば、その際の行為の主体者はAでもなくBでもなく、AとBのあいだがら、AとBとのあいだにある「間」、その場の雰囲気、あるいはその場の空気ということになろう。
「間」こそが真の主体者なのだ。
対人恐怖症の真の主体者も「間」である。
とくに中間状況においてはそうである。
人と人とが接する時に生じる「間」は、あるときは親愛という合体志向へ、あるときは反感、対人恐怖症という分離志向へと人を揺れ動かす。
そのせつなに感じられるものを純化してとらえれば、親愛でも対人恐怖症や反感でもなく、一種の沈黙のようなものであろう。
人と人との間柄、その場の雰囲気、刹那の沈黙、あるいはその場の空気などと、「間」を説明するのになんとも「間」が悪い思いをする、言葉にならない「間」が真の主体者だとは、なんとも困ったことではないか。
剣道にも「間」、つまりは「間あい」というものがあるらしい。ある剣道高段者にたずねたところ、間あいとは、つかず離れずの「間」だという。
間合いをたもつのが剣道の奥義だとのことであるが、間あいをたもつのは剣士の主体性なのか。
間あいが剣道の奥義だというのなら、剣士は逆に間あいによって一瞬の決断に導かれるという解釈も可能となる。
それなら間髪を入れずに打ち込む剣士の、個としての主体性はどうなるのか。
※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著