対人恐怖症の中間状況では、親密集団における対人関係で許され、かつ望ましいとされる対人恐怖症の自他合体的志向と、同じく無関係集団でゆるされ、かつ望ましいとされる対人恐怖症の自他分離的志向の、どちらもとりにくい。
そのために相反する志向が同時に働き、両方向に揺れ動いて困惑し、おのずと「自」と「他」と「間」が強く意識される対人恐怖症になるからである。
興味深いのは、ここに対人恐怖症における対人関係の基本的原型が示唆されていることである。
いったい、対人恐怖症における「自」と「他」と「間」の関係はどうなっているのか。
ここで拙著『正気の発見』でとりあげた例で説明しておこう。
たとえば、AとBが一緒にレストランに行くとする。
そのとき、もしAが400円のカレーライスを注文したら、Bはどんなにビフテキを食べたくとも、ふつうなら一万円のビフテキは注文しない。
せいぜい千円程度のビーフシチューにとどめておくであろう。
その場合、なにがその場におけるAとBの注文行為を決めたのか。
ここで実は、Aもビフテキを食べたかったけれども、Bの懐具合を知らなかったとしておく。
この場合、このような注文行為にみちびいたのは、Bにとって「他」である、Aの「自」の主体性なのか、それともAにとって「他」である、「B]の「自」の主体性なのか。
あるいはAとBのどちらも、純主体性にもとづいて決断したのか。
よく考えると分からなくなる。
もしここで主体性論争をし、どちらがその場の主体者だったかの決着をつけようとしたら、カレーライスとビーフシチューは喧嘩別れとなるに違いない。
そのとき、最初に注文を出したAにむかってBが、「お前がカレーライスを注文したので、どうも懐具合がわるそうだと、そこまで考えてビーフシチューにしたのも俺の主体性だ」と言ったとする。それを知ったらAは、「なにを、恩着せがましいことをいいやがって、俺だってそうだ」と、カレーライスをBに投げつけて怒りを爆発させるに違いない。
いかにも対人恐怖症的である。
※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著