対人恐怖症と言われる神経症が、欧米諸国に比べて日本に多く見られることは、いまでは研究者の一致した見解である。
その傾向を多少とも持つあるいは過去にもった人をも含めたら、日本ではその人達が多数派を占めるといって過言ではない。
とすれば、そのような傾向を全く持たない人たちの方が異常だという考えも成り立ちうるであろう。
たとえば会議の時、司会者が指名でもしない限り、誰が先導の口火を切るかと、しばしの沈黙が続く。
このような傾向は外国人には目につくらしく、日本文学研究者のサイデンステッカー氏は、次のように述べている。
「私の西欧人の友人で、アジアの他の国々の人達とともに日本人が出席する会議によく出る人がいる。
その人の話によると、会議の際、いつも困ることが二つある。一つは、他のアジア諸国の人達に発言をどう遠慮させるかということ、もう一つは、どのようにしたら日本人に発言してもらえるかということである。」
日本では、会議であれ何であれ、いつも先に立ってずばずば自己主張をする人は、でしゃばり、無遠慮、無神経といわれかねない。だから多くの人達は、周囲を見計らって発言する。
ようするに対人恐怖症的なのだ。
治療の対象となる対人恐怖症も、このような日本人の対人行動パターンと無縁ではなく、その背景があって初めて顕在化する病理である。
このように、ある特定の社会に目立って多く見られる神経症を文化結合症候群という。
文化結合症候群とは、ある社会の文化にふかく根ざした症候群と言う意味である。
実際、戦後まもなく神経症の日本的特性が問われた時、筆頭にとりあげられたのは、対人恐怖症であった。
それ以来、この神経症は、外国との比較に際していつも言及されてきた。それを思うと、たしかに対人恐怖症は文化結合症候群の名に値するかもしれない。
ところが、大変興味深いことに、近年イギリスやアメリカで社会的恐怖症とよばれる、対人恐怖症に似た疾患が注目されるに至った。
すると、対人恐怖症を日本特有の文化結合症候群とする見方に疑念が生じてくる。
いったい実情は、どうなっているのだろうか。
後に述べるように、対人恐怖症と社会的恐怖症は多くの共通点をもちながら、両者のあいだには注目すべき差異が認められる。
しかし、最近この差異が不鮮明になりつつあることを示唆する臨床像の変化に注目がむけられはじめている。
とはいえ、差異は差異として、現時点の状況を冷静にみつめておくことが大切だと思われる。
あえてこのようなことを指摘するのは、本サイトにおいて対人恐怖の治療やそれに関連して神経症一般の問題をとりあげようと思うからである。
神経症は、多かれ少なかれ、なんらかの対人関係の障害とふかくかかわっている。
したがって対人関係からなる社会の在り方と切り離してみるわけにはいかない。
おのずと治療の目標は、現に生活している社会への、何らかの形での、適応に向けられることになる。
なんらかのかたちでのと、言葉を濁しておいたことに注意を怠らないでください。
そもそも対人恐怖症は、人と人との間のずれに悩む疾患である。
したがって、ずれに悩む人の個性の存在を前提とする。
もし治療のもくひょうが個性を削り取る社会への過剰適応になるとしたら、対人恐怖症者の、ひいては人間一般の個性の圧殺につながりかねないのだ。
このような結果になりかねない点が危惧されて、戦後一時、欧米流の個人主義的な考え方に立って、個の確立こそが治療の目標でなければならないと主張されたこともあった。
当事者は当時、このような見方に胡散臭いものを感じていた。
その後治療経験をかさねるうちに、私達には私達の文化に根差した治療理念があってもいいのではないかと思うに至った。
日本はとかく過剰適応をしている社会のように思われがちである。
個の確立を治療理念とすべしというのも、所詮はそのような考え方の裏返しにすぎないのだ。
しかし、実は日本の社会は、それなりに二面性をそなえた柔軟構造をもっているのではなかろうか。
自己主張と言う点を一つ取り上げても、確かに突出すると、でしゃばり、無遠慮、無神経といわれかねない。けれども、それでいて太平洋戦争などという突拍子もない自己主張をする国でもあったのだ。
思えば不思議な心性である。
遠慮深いようでいて自負心がつよい。
気が弱いくせに負けず嫌いで意地っ張り。
「撃ちてしやまん」で貫くかと思ったら、たちまち「一億総懺悔」。
孤立的閉鎖的なようでいて周囲に絶えず気を配り、好奇心が強くて外国の文物を臆面もなくとりいれる。
タテマエにおいては理念や合理性の重視、本音においては現実や感情性の重視。
平等主義のようでいて、相互に激しく競い合う。
社交下手なくせに、仲間と一緒にいないではいられない。
徒党を組みたがるようで、一人一殺主義的な心情がいつ飛び出すとも限らない。
その他、あげればきりがないほど矛盾にみちみちているのが、私達の心性のようである。
それでいてアイデンティティを失わないとすれば、そこにはなんらかの文化的装置がはたらいているに違いない。
当事者は対人恐怖症の研究を通して、そのような文化的装置の心理的基盤に、本来両義的な感情である羞恥の心が作動しているとの結論に導かれた。
それは、欧米を「罪の文化」日本を「恥の文化」と規定した、ルース・ベネディクト「菊と刀」の恥概念が、一画的であることへの私なりの解答であった。
「罪の文化」と「恥の文化」の対比は、ある断面で見れば、個人主義か集団主義かといった対比に通じるものであるが、いったい日本人は個人主義者なのか集団主義者なのか。
この問いは、「羞恥」の人ジャン・ジャック・ルソーの思想に関して、くりかえし問われてきた事柄であり、かつまた対人恐怖の問題とも深いかかわりをもつ。
日本人はとかくみずからを集団主義と規定したがる傾向がある。
他者志向型、大勢追随型、甘え、家族主義、個の解体・画一化、論理よりもムードなどの、日本人論でしばしば指摘される特徴も、皆同じ事柄を、表現を変えて言い表しただけにすぎない。
肯定的にしろ、否定的にしろ、同じようなのっぺらぼうの自己規定をつづけているうちに、それ自体が日本人のあるべき姿だとされかねない。
そう思うとまことに空怖ろしいかぎりである。
もしそれが日本人の行動規範だとすれば、欧米の個人主義など理解をこえることがらで、日本の近代化は不可能だったはずである。
もともと日本人に個人主義の素地がなかったら、日本の近代化がそうたやすく達成しえなかったことは、少し考えれば、容易に理解できるのではなかろうか。
その面を明確にとらえておかないと、自ら道を誤らないとも限らない。
当事者は対人恐怖症の精神病理構造を手掛かりにして、ルソー研究をおこなった。
ルソーを鏡にしてみずからをふりかえってみた結果、日本人は個人主義であるとともに集団主義であるとの結論に到達した。
それは一つの矛盾である。
それでいて日本人が矛盾に引き裂かれずにアイデンティティをたもっているのは、それ相応の文化的な仕掛けがはたらいているからである。
その仕掛けには、欧米の個人主義とはおのずと異質なものがあるはずである。
先に、私達には私達の文化に根差した治療理念があってもいいとのべたのは、そのような仕掛けを活用するのが最善ではないかという意味においてである。
なぜなら、そのような矛盾に引き裂かれた自分を、どのように対人関係のなかに位置付けていいかにこんわくしているのが、対人恐怖症に他ならないからだ。
近年、国際化の動向とは裏腹に(そういう動向にあるからこそと言うべきかもしれないが)、それぞれの国や社会の文化に根差した治療法が見直され始めている。
特に神経症の治療では、それは自然な動きだといっていい。
当事者はこれまで対人恐怖症の問題に興味を抱き、主としてその精神病理学に重点をおいて著書や論文を書いてきた。
それらはすべて私の治療的実践に基づいている。
そこで本サイトでは新たに比重を治療に置き換えて書いたものである。
このサイトを通じて対人恐怖症に悩む人達にすこしでもやくだつことがあるとすれば、著者の望外の喜びである。