●視線恐怖の治療
”昔からあった視線恐怖”
視線恐怖の患者が近年増えて来たとの見解もあるが、戦前の比較資料があるわけではなく、単なる印象判断にとどまっている。しかし、相手の目をじっと見て話すようにとのアメリカ流の対人的あり方を、戦後安易に導入した教師の指導方針に、災いされたとしか思えない対人恐怖症患者が少なくないことを思うと、社会的文化的背景を度外視しては対人恐怖症の全貌をとらええないことは、たしかである。
「自分が気が小さくて、人と面と向かってはなすことができないと苦にして、にらむことを稽古するものがある、・・・甚だ無礼である」という森田療法の言葉を考えてみると、すでに戦前の時代に、森田療法では数多くの視線恐怖の患者をみていたものと思われる。
そう考えなくては、このようなふかい洞察が生まれてくるとは思えないからである。
興味深いのは、視線恐怖に対する森田療法の治療姿勢である。
森田療法では「眼が凄くなる」という正視恐怖の患者に対して、次のように述べている。
<長上の人や、知人と交和する時は、日本の礼法としては、その尊敬の度がつよいほど、その人の膝の先、下腹、胸部というように、その近傍を、ぼんやり見ながら(その方向に、見るともなしに、目を向けながら)先方が何か言う時、または自分の意見を確かめる時、先方の顔を一寸瞬間、盗み見るのが法で、それが、ちょうど、人情の自然であります。>
日本の礼法などというと、もう時代遅れといわれるかもしれない。
しかし、連続幼女誘拐事件の被疑者(当時)と接したわけでもないのに、間接情報だけで被疑者の心性やそれを生み出した家庭や社会を「見、知り、あばいた」とでもいわんばかりの、識者とやらの厚顔無恥な連中がまかり通る世の中である。
「見、知り、あばく」一億総評論家社会も結構であるが、自分がこの事件の被疑者にされるのではないかと真剣に怯えていた視線恐怖の患者がいたことも忘れないでいただきたい。
この患者を笑いとばすことができようか。「見、知り、あばく」この社会では、誰でもがあばかれる対象となりかねないのだ。
どこかで歯止めが必要だ。
たとえ古臭くても、森田療法の精神をいかすことが必要であり、それこそ今の時代にふさわしい反時代的精神となりえよう。
※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著