“楽しみは追うほどに逃げる”

対人恐怖症の不安な人間は、人間関係ばかりではなく、いろいろなことで決めてかかる。

快楽主義者はたとえば、どうしなければ楽しめないというものでもないのに、ひとりで勝手に「こう」でなければ楽しめないと思い込んでいる。

快楽主義者はお金が無ければ楽しくは遊べない、こんなところでは楽しく時を過ごせない、こんな時には落ち込んでしまう、飲んでなければ楽しくない、たくさん飲める肝臓の強い人でなければ夜の会は楽しくない、こういうセックスでなければ楽しくない等々、さまざまなことについて勝手にひとりで決めてかかっている対人恐怖症の人が多い。

快楽主義者は酒飲みは体をすぐにこわして人生の敗残者になると決めつける対人恐怖症の人の心も不健康であるが、酒が飲めなければ夜の会合は楽しめないと決めてかかっている人の心も、やはり同様に不健康である。

快楽主義者は酒というものは、たくさん飲めるから楽しいとか、たくさん飲めないから楽しめない、というものではない。

快楽主義者はたくさん飲めなければ楽しめないと決めてかかる対人恐怖症の人は、たくさん飲めるようになろうと努力する。

快楽主義者はしかしこの努力も不安を動機とした努力だから辛いものである。

快楽主義者というのは心の不安な人に違いない。

快楽主義者の彼らは、より多くの快楽を得なければ生きている意味がないと考える。

そして快楽主義者はより多くの快楽を得ようと焦る。

しかし快楽主義者は焦れば焦るほど快楽は逃げていってしまう。

快楽主義者はこうして悪循環に陥っていく。

快楽主義者はまた、大きな快楽を前にすると、この快楽を味わわねば生きている意味がないと思うからやはりあせる。

快楽主義者はあせるから目の前の大きな快楽は逃げていく。

心に不安がない人は、おおきな快楽を前にすれば、その快楽に一体化していくことができる。

快楽主義者は対人恐怖症の人のように生きていることの無力感や不安から快楽主義へと駆り立てられていく人は不幸である。

快楽主義者は、こうでなければ快楽は得られないとひとりで勝手に決め込んでいる人である。

そして快楽主義者はそう決め込むからこそ、そう生きなければと焦ってしまう。

快楽以外の領域で満足している人は、そんなふうに快楽をとらえない。
快楽以外の領域で充実した人生を送っている人は、大きな快楽を眼の前にしても、それに眼がくらんでしまう、ということはない。

快楽に目がくらまないからこそ、快楽を眼の前にしても、それを得なければと焦ることがないのだ。

※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著