“へまが怖い”

ところで、つよいかよわいかといった話は、とかく陰々滅滅となりがちでいる。
なにも対人恐怖症患者にかぎらず、一般に弱者と思い込んでいる人たちの気持ちを、下手に分かったような言い方をすると反発をくらう。
それと同じで、先生はこんな悩みをもってないから、簡単にそういえるかもしれないけど・・・、といった疑問符を投げかけられることが、ときおりある。

たしかに対人恐怖症患者は優劣にこだわる。
だが、性格構造における強力性と無力性と言っても、それは発病後の対人恐怖症患者から得られた特徴である。
しかも、発病後すぐ来院する対人恐怖症患者は皆無で、多くは数年間みずから克服の努力をこころみ、結局自分ではどうにもならなくなって来院することを考えると、その間に強化されている可能性がある。

たとえばA男さんの例で発病時点をみてみると、会議のとき女生徒が発言した際にどきんとして顔色がおかしくなったのが、きっかけであった。
またC男さんの場合も、女の子と話している際に話につまったことが発病のきっかけになっている。
いったい、それ自体に優劣というほどの意味あいがあったといえるだろうか。

対人恐怖症患者は大恥をかくほどの大失策をしたわけではない。
第三者的にみれば、ほほえましさすら感じられる出来事である。
ある消防署新人職員の場合は、火事現場であわてふためいてホースを輪のようにつないでしまったことが発病契機となった。
これなどは一場の笑い話にもなりうることがらである。

対人恐怖症の発病の経過には、このようにきっかけがある例と何のきっかけもなく発病する例とがある。
前者の例でみられる発病契機は、いまのべてきたように、大部分がささやかな失策である。ようするにへまなのだ。

へまという表現では、まだ優劣における劣位性の意味あいをつよくおびかねないので、その点をできる限り払拭していう。
対人恐怖症の発病契機となった失策とは、そのはいけいにある「間」の困惑への敏感さの一局面に生じ、その局面にかぎって若干劣位性の意味あいを帯びた体験なのである。

※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著