二重拘束や不機嫌のことを考えてくると、われわれはもうひとつよくあるタイプの人間に気付かざるを得ない。
それは、外面がよくて内面が悪い対人恐怖症の人間である。

外面がよいのは愛情を求めているのである。
しかしその対人恐怖症の人の内面にいったん踏み込むと、とたんに愛を拒否する。
それが不快感となってあらわれる。

多くの人が次のような悩みをもっている。

「新婚旅行の時からがらりと夫の態度が変わってしまった。
それまでは優しい人だったのに、いったいどうしてでしょう」というのである。

いろいろ話を聞いていくと、その夫の感情が引き裂かれていることがよくわかる。
その夫にしてみれば、妻という至近距離の人間から愛情を受け取ることもできないし、もともと愛情を与えられるような人間でもない。

かといって逆に、敵としての感情を明快にさせることもできない。
イライラしながら沈黙せざるを得ないのであろう。

対人恐怖症の彼には、自分の湿って引き裂かれた感情を正確に表現できない。

至近距離にある人間に自分の明快な感情をもてる、これが人間の情緒の成熟である。
このような人間には”共に生きてゆく”という姿勢がある。

ところで、対人恐怖症の人が至近距離の人間に対して自分の明快な感情をもてなくなってしまうのはなぜだろうか。
そのような内面の土壌に、愛情というものが素直に入っていけないのは容易に想像のつくことである。
対人恐怖症の人は内面の不安や恐怖が愛情を拒否しているのである。

対人恐怖症の不安な人間は他人からの愛情を素直に受け取ることができない。

つまり、対人恐怖症の不安を克服するのに必要なのは愛なのに、その愛を受け容れることができないということである。

ここに対人恐怖症の不安な人間が不安を克服する難しさがある。

対人恐怖症の不安な人間は、自分が最も必要としている者を拒否し、自分を悪化させるものに近づこうとする。
対人恐怖症の不安な人間は、他人からの真の愛情に接すると体をかたくしてしまう。

愛情を受け容れることができない。
長いことそのようなことを経験していないのである。

対人恐怖症の人は真の愛情に親しみがない。
偽りの愛情になれすぎているので、そのほうに親しみを感じる。
偽りの愛への対処の仕方がみについてしまっているのである。

※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著