“嫌いな相手になぜしがみつくのか”

近づくと不愉快な顔をされ、離れると冷たいと非難されている人は案外多い。
冷たいという非難を恐れて、その人から離れられず、一生不愉快な顔をされ続けて、心がおかしくなっている不機嫌な対人恐怖症の人もいる。

不機嫌な対人恐怖症の人の中には離れることを禁じられて、しかも拒否されつづけるからである。

不機嫌な対人恐怖症などの心の病を生み出す親ほどはひどくなくても、このような人は案外多い。

山崎正和が『不機嫌の時代』の中で「不機嫌な人間は他人との交渉を拒否するのであるが、しかし決して他人を遠く離れて完全な孤独を求めようとはしない」と述べている。

まさにその通りである。

さらに付け加えれば、不機嫌な人間ほど孤独を恐れている。

対人恐怖症で不機嫌な人間ほど孤独を嫌がっている人もいない。

そして不機嫌の引き金になるのは、えてして身近な人間である。

近しい人のひと言だからこそ、余計不機嫌になる。

感情の両価性――二重拘束――不機嫌、それらには本質的に共通のものがある。

子どもを二重拘束のどうしようもない状態に陥れてしまうのは、不機嫌な親であろう。

対人恐怖症の不機嫌な人間は、いったん不機嫌になると、自分の感情をどう表現してよいかわからなくなる。

したがって、不機嫌な人はいつまでもいつまでもくどくどと相手を責めることになろう。

そして、不機嫌な人は責めても責めてもスッキリすることはない。

それは、不機嫌が表現を拒否した感情だからであろう。

不機嫌な対人恐怖症の人は表現を拒否した感情であるが、これほど表現を求めている感情もまたない。

だから、不機嫌な人は見当違いの小さなことで、いつまでもネチネチと相手を責め続けることになるのである。

二重拘束というのはベイトソンらが使っている語の訳語であるが、不機嫌とはまさに日本人の言葉である。

夫婦でいえば、不機嫌な人はネチネチと責めるから別れるかといえば、決して別れることはしない

不愉快で不愉快でたまらない相手にしがみついていなければならないのが対人恐怖症で不機嫌な人間である。

対人恐怖症で不機嫌な人間もまた、他人からの愛情を受け取ることができない人間である。

※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著