”あるがままに自分を考える”

人間の言動は背後の動機を強化するから、ありのままの現実を否定することで、余計ありのままの現実が怖くなっている。

現実は、理由もなく自分にとっては好ましくないものという感じ方になってしまう。

ありのままに生きられない対人恐怖症の人は、合理化によって自分の虚栄心を守ろうとするが、現実はいよいよ恐怖に満ちたものとなる。

他人もまた、自分の虚栄心を傷つける存在と感じられてくる。

そして他人といるとストレスに苦しむようになる。

対人恐怖症の人は他人が自分の虚栄心を傷つけるのではないかと恐れて、他人に自分をよく印象付けようと苦労する人はいる。

しかしその人達は、自分が困った時自分を本気でたすけてくれるような友人をもっていない。

対人恐怖症の人は他人によく映ろうと努力を続けながら、困窮にさいしてたすけてくれる友人をひとりももてない。

こんな淋しいことがあろうか。他人に受け入れてもらおうと心労し、消耗し、困った時にはひとりぼっち。

他人によく映ろうと心労する人は、意図としては自分を救うつもりであろうが、結果としては自分をみじめにするだけである。

対人恐怖症を克服したければあるがままに自分を考えること、すべての確実なものは、この上に立つ。

あるがままの自分以外に、われわれはいったい何を生きることの基礎にできるであろうか。

対人恐怖症を克服したければあるがままに自分を考え、あるがままの自分を受け容れてくれる人と付き合う。

人生の基礎はこれしかない。

他人によく映ろうと努力している対人恐怖症の人は、何らかの困窮の場にはやく出会ったほうがよいだろう。

その時、自分には誰も、確かな親友がいないのだということがわかるからである。

対人恐怖症の人の中には他人によく映ろうと努力し、それに成功したと思っている人は多い。

そして、その印象を悪くすまいとして努力する。

よい評判を維持しようとして努力する。

対人恐怖症の人達は、その良い評判やよい印象を失うことを恐れる。

失うことの怖れ、それを維持し続けようという願い、それに動かされて気を遣い、疲れる。

しかし実のところ、彼らが失うものというのは、何なのだろうか。

対人恐怖症の人は本当に困った時にはたったひとりでしかない、そして困っていない時には、失うまいと気を遣って消耗する。

彼らが失うまいとしているものは、まったくの嘘ではなかろうか。

対人恐怖症の人は他人にとられるのがいやだからという理由で、愛してもいない昔の恋人にしがみついているようなものであろう

しがみついているものの中身は何もない。

対人恐怖症の人は自分の内面が虚しいと虚しいものにしがみつくのである。

※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著