”酸っぱいブドウ”

イソップ物語の『酸っぱいブドウ』は、われわれが小さい頃からよく聞かされてきた物語である。
手の届かないブドウに対して、キツネが「あのブドウは酸っぱい」といったあの話である。

これが象徴しているのは、外に対しては”酸っぱいブドウ”という合理化、内に対しては”甘いレモン”という合理化である。
これを人に例えると対人恐怖症的である。

失恋した相手をけなしているのをよく耳にする。
きっとそういう人の家では、小さい頃からこれと同じことが行われていたのである。

対人恐怖症の人は社会で活躍している人達を見ては、「あいつらはだましあいだよ。もう、本当のものなんか何にもわからなくなっちゃっている」とか、すばらしい職業を見ては、「気苦労が多いんだよ、みんなヘトヘトだよ」とか、とにかく外の世界のよいものをけなす。

対人恐怖症の人はそれとは逆に、家の中のことはなんでもかんでも肯定する。
商売をしていてお金があれば「世の中はなんといってもお金だよ。お金の入らない職業なんて、偉そうにしていたって何にもならない」といい、お金はないけれど暇な職業であれば「あくせく働いている人は可哀そうだ、自分の時間があるのが何よりだ」という。それが本心ならよいが、”甘いレモン”の合理化である場合がある。

外に対しては”酸っぱいブドウ”という合理化、内に対しては”甘いレモン”という合理化、このような二つの合理化が支配する家庭で育った子どもは、外に対して安心感をもてない対人恐怖症になるであろう。
他人が自分に好意を持ってくれると感じることができない対人恐怖症になるであろう。

この”酸っぱいブドウ”と”甘いレモン”の合理化が支配する世界に住む人は、井の中の蛙である。

だからこそ、井の中の蛙は視野が狭いし、虚栄心が傷つきやすい対人恐怖症である。

酸っぱいブドウも甘いレモンも、現実が自分の虚栄心を傷つけるので、何とかありのままの現実を否定しようとする論理である。

現実を否定する動機は、現実への恐怖である。
対人恐怖症である。

※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著